富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

吉右衛門 の検索結果:

…地味でいい芝居かも。吉右衛門が源蔵だったりすると想像も絶するが(笑)中村屋であるし。そして「口上」も雀右衛門、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門、玉三郎、勘九郎、團十郎と並べばさすが成田屋の襲名披露口上といふもの。夜の部では海老蔵の「助六」に揚巻は玉三郎(この揚巻はてっきり京屋雀右衛門かと思っていたが京屋はやはり新之助君の団十郎襲名まで「待ち」なのだろうか……笑)、白玉が福助、福山のかつぎに松緑(本来なら海老蔵に高1の時に生ませた隠し子とかいるとこの役につけるのだが)で、髭の意休と曽…

…目に福助、続いて初代吉右衛門、六代目菊五郎、七代目幸四郎、二代目左団次、西は前頭筆頭が五代目歌右衛門、六枚目に喜多村緑郎といふ布陣。ところで。台湾文学の白先勇の小説熟読すべきかどうか、邦訳もなく挑むべきかどうか。昼過ぎにZ嬢とQuarry Bayまで散歩して祐民街の來記にて米粉のラクサ食す。たかだか車仔麺の即席麺家ながら名を馳せ繁盛。相席の祖母と母、二十歳近き息子の三名狭い麺家にて和みゆっくりと食事楽しみ(それはいいが)混雑する店で母の息子の溺愛著し。Z嬢と別れジムにて二時間…

…、当時、六代目、初代吉右衛門、勘弥といった贔屓役者を亡くし自分より少し年下の勘三郎贔屓に歌舞伎三昧で歌舞伎以外では初代八重子の新派くらいしか見もせぬ祖母が突然に宝塚、宝塚と何かと思えば「ベル薔薇」にて宝塚など見もせぬ祖母まで宝塚とはベル薔薇ブームも大したものと思へば実は宝塚の鳳蘭に確か遥くららだったか(失念)のベル薔薇、演出が長谷川一夫でベル薔薇。長谷川一夫の色気と気品がどの程度宝塚のベル薔薇に反映されたものか見ておらぬ余にはわからぬところ。長谷川一夫といへば祖母など林の頃か…

…くまで「菊」が最初。吉右衛門は音羽屋と組むことで高麗屋の上に立てれば満足であろうし、成田屋はじぶんの分を知っている役者だからそれ以上の野心はないはず。問題は歌舞伎役者の人間国宝5名のうちの最高齢82歳ながら雀さんが当分君臨しそうなこと(他に鴈治郎、富十郎、芝翫と又五郎)。音羽屋ももう還暦なら黙ってれば劇壇の覇権転がり込む筈が雀さんのが長寿壮健がどこまであるか、が気がかりか。雀さんにとって目下の人生の目標は新之助君の海老蔵襲名での助六での揚巻であろうし、まさかその海老蔵の団十郎…

…ばたらい)、播磨屋(吉右衛門)の光秀で中村屋が演じたのが妹・桔梗。「心から女に惚れた経験のない」乱歩先生がその少女役には夢中になり、それから中村屋が「もしほ」名乗った時代は乱歩も芝居から遠退いたが勘三郎となった中村屋とついに会う機会あり意気投合し友情続き今日に至る、と。乱歩が勘三郎を誉めるのは「戦後の歌舞伎の中心をなす若い俳優のうちで、勘三郎君ほど舞台に余裕のある人はいない」といふ点。但しさすが乱歩先生「しかしこの長所には一方欠点もあるので、自分の演技のない時など、目が遊びす…

…和28年歌舞伎座にて吉右衛門(初代)の『盛綱陣屋』、そして歌右衛門の『娘道成寺』。今上陛下となられて初めての天覧ながらマスコミにはほとんど報道されず。天覧歌舞伎は上述のように明治の團菊左、播磨屋に大成駒と当代代表する名優の舞台であったわけで、それが今回は成田屋。それが真っ当かどうかの意見もあろうところ。築地H君も指摘するに団菊→五代目歌右衛門→菊吉→六代目歌右衛門、と継承されてきた劇壇覇権が今は空位の時代。宮内庁と文化庁、松竹で「いまだったら誰?」「…そうですねえ、長老という…

…4月の歌舞伎座(近 松門左衛門生誕350年)の『国性爺』雀右衛門丈が錦祥女、もはやとどまるところしらぬ京屋の大活躍だが、この国性爺、京屋の錦祥女に吉右衛門(和藤 内)、仁左衛門(甘輝)で脇を固めるのが左團次(老一官)と田之助の渚、これは当代最高の配役。大したものだ、と思っていたらすぐさま築地H君とりメール あり大成駒も六代目ばかりか五代目も生涯最後の役がこれ、縁起が悪いといへば縁起悪いが雀さんも女形人生の総決算か、と。ただ今の京屋なら悪き験も振るい 落とすほどの気勢あり、か。

…救済かも知れぬ。 ▼吉右衛門(播磨屋)芸術院会員に。朝日は「役柄に格調や品位があり、心の陰影をきめ細かく表現する能力に 定評がある」と。役柄に格調や品位があるのではなく播磨屋なりの格調や品格が良くも悪くも強すぎるのだが……。まぁいいか。 ▼新聞各紙、昨日の読売新聞の台北電を報じて靖国神社が台湾にて賛助組織設立準備、と。同社の崇敬奉賛課長らが台湾 入りして台湾人戦没者遺族にこの崇敬奉賛会へ の参加を促し台湾支部設立の意向あり。首相小泉君の靖国参拝に加えこの動きがさらに中国、支那…

…ては財界とて「昨今の吉右衛門君の舞台 は」などと劇評、謡曲やオペラなど趣味人多きものながらゴルフが全ての文化を駆逐したか。吉野氏は東京人にて、それが身に染みつきすぎているからか荷風の 日記が戦後一行日記になってゆくなかで「晝淺草。大黒屋にて晩餐」といふ記述を「不思議に思うだろうが」「大黒屋は市川の荷風の住処の近所」というような 注釈をつけているが「不思議に思うだろうが」というのが、それだけじゃ何が不思議なのかわからぬ者多し。「大黒屋といっても浅草の雷門の大黒屋ではない」 「晝…

…時蔵にてその兄が初代吉右衛門、弟が勘三郎。その獅童君はもっと線が細い気がしたがこの映画 での役柄もあるが当代でいえば高島屋(左団次)の担うような役を後継してゆくべきニン。白波五人男でいへば日本駄右衛門か南郷力丸、石川五右衛門、助六な ら鬚の意休、源平布引滝で瀬尾十郎、忠臣蔵なら九段目で加古川本蔵、車引の時平とか。 ▼競馬にてちなみに昨日Dashing Winnerを進路妨害にて告訴し一着を掠取りたるThe Achiver (B347) 小癪ながらフジキセキ産駒にて10月1日の…

…七着。小宮豊隆『中村吉右衛門』読了す。歌舞伎嫌いで通っていた漱石が歌舞伎を「極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心 に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応ずるために作ったもの」と定義するのはかなり面白し。言い当てていて妙。明治で九代目であるとか五代目歌右衛門の あたりから団菊左に至って歌舞伎が高級なものになるのだが漱石の言う通りの低俗な大衆演劇であるのが本抄。豊隆も書いている吉右衛門の文化勲章で芸術の域 として「公認」されたわけだが豊隆の随筆はこの「吉右衛門…

…早朝、小宮豊隆『中村吉右衛門』(岩波現代文 庫)読み始める。とくに「中村吉右衛門論」は明治44年に書かれたもので豊隆弱冠27歳。明治にこのような一人の役者の評論がなされたということは驚き。 しかも吉右衛門が九代目団十郎の薫陶により(これは私は個人的にはそんな素晴らしいこととは思えないが)「型」の歌舞伎に「心」を持ち込んだ近代の役者な ら豊隆もまた『演劇画報』に代表されるそれまでの芝居見物評を批評と「しようとした」人。黄昏てジム。晩に「中村吉右衛門論」の続き読み思ったが、(朝の…

…梅幸、皐月に六代目友右衛門、久吉に初代吉右衛門、正清に六代目彦三郎といふ絶世の豪華な顔触れ。襲名口上では最愛の息子を失った五代目歌右衛門に同情が集まり見物の客の涙を誘った、といふ。この若き福助の浮き名、今なら野暮な芸能マスコミの格好の餌食ながら若き女形の芸の肥やしと許容されたのが風情といふものか。昭和の名女形の誕生もかうして兄の若死と父である五代目の後盾あってのこと。それがなければ名が役者を作ると思へばこの若き児太郎がその後どのような人生を送っていたかを想像するもまたをかし。

…舞台は」とか「先代の吉右衛門は」などと祖父母の話に出てきて全くわからずにいたが今となっては若い衆に「勘弥は」とか「勘三郎は」といふ我もまた年老いたり。それにしても九月の夜の部にて神谷町の踊りで「年増」(笑)、神谷町が自ら踊りたいといったのか松竹側が「芝翫さん九月はひとつ「年増」で」とでもお伺いするのか……いずれにしても洒落にならず。 ▼屯門公路での時速200公里の自家用車が大破し自動車事故二死二危という惨事ながら蘋果日報の記事「製造から僅か三年のポルシェ」「時価HK$100萬…

…と大叔父と父が祝杯。吉右衛門自伝にてのちの喜劇役者曽我廼家十郎が父歌六の弟子にて若き吉右衛門の子守役だったと知る、読了。朝訪れし市内の大伯母より電話あり子息Y氏と温泉来訪、夕食を共にす。 羽傷むつばめ立ち寄り硫黄泉 富柏村 東京都にて養護学校の一部にて扶桑社の歴史公民教科書採択される。栃木での採択が否定され兎に角採用の実績を作ることが先決と、それで利用されしが養護学校か。東京都が実績作れば右にならえで愛媛県も同じく養護学校にて採択、石原以上に馬鹿な愛媛県知事曰く「外国には不快…

…速にて酒入手できずガス欠となり磐越吾妻麓にてゆず沢の茶屋なる田舎懐石にて補給、その奥石原高原なる山合にひっそりと蕎麦の里なる蕎麦屋、福島の山麓にて更科的、なかなかな皿蕎麦と鴨南蛮、酒は八海山。玉の湯に投宿。福島の金水なる酒を飲みつつ硫黄泉の露天風呂、霧の如き小雨を浴びつつ。昭和26年に啓明社なる鎌倉の書肆から出版されし中村吉右衛門自傳読む。延々大叔父、父母と酒を飲み交わす。それにしても大叔父の話を聞いて面白いし不思議は山口昌男的な昔の親戚複雑関係、エンドレスにリゾームな関係。

八月五日(日)颱風九号が小笠原諸島あたりを通過、その影響にて強風に曇り雲との予報、これはサーフィン日和と海へと繰り出せば海風心地よく曇天どころか晴れ空が続きなぜか山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』を読む。サーフィンせず(当たり前)。あれのなにがいいのかわからないが山口瞳の文章がいい。大学での専攻まで同じT君と邂逅。深夜NHKにて吉右衛門と芝翫で一条大蔵譚を見る。

…れる量ではなく断念。吉右衛門自伝、六代目の自伝など読みたく抜き出す。七夕祭。もともと宗教性もなく昭和三十年代に商工会議所が七夕を大きな祭りにしたものだが、それでもかつてはかなり盛り上がっていたものが人出など寂しきもの、大型店が次々と閉店した商店街に七夕の飾りすら乏しく歩行者天国に各商店街の山車だけが迷い子のように点在する様。夜、中学の時の恩師宅。山極圭司『青春三十年1920−1950旧制水戸高等学校物語』(朝日新聞)読む。30年の歴史のうち実際には20年弱の国家主義の中での純…

…れが縁でその萬次郎・吉右衛門の香港公演にて予も生まれて初めて大向こう気取りで「藤娘」と「鳴神」にて掛け声をかけた次第。97年には台湾は台北、高雄と今度は羽左衛門・萬次郎が親子で公演にて高雄まで一泊二日にて羽左衛門丈の舞台を拝みに出かけ「大橘」と声を掛けさせていただいたも今となっては思い出。新聞の訃報を読めば弁天小僧での日本駄右衛門が挙げられ「重厚、堅実な芸風」というのは役者としての上手下手ではなしに、つまりこの人はそういう存在していることで場が纏まるという、市村の家が市村座の…

…そっくりになった中村吉右衛門(81)が元気に家主と源七を付き合う。七代目は梅幸(83)となり、「累」を辰之助改め、祖父の名を継いで五年経った松緑(50)と共演中。芝居上手の十八代目勘三郎(勘九郎改め)も「踊りの神様」十代目三津五郎と「三社祭」を踊って客席を沸せている。国立劇場も腰の痛みで休養していた坂東玉三郎(75)久々の出演による「老後の政岡」が十三代目団十郎(48)の特別出演で大人気。国立劇場では専属制度が始まり、今年一年間は白猿(79、十二代目団十郎改め)、団十郎親子が…