富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十月初二日(木)快晴。昨日の日剰上網。RER-3の地下鉄道にてVersaillesに赴く。Versaillesといへば池田理代子先生の大作『ベルサイユの薔薇』、当時、六代目、初代吉右衛門、勘弥といった贔屓役者を亡くし自分より少し年下の勘三郎贔屓に歌舞伎三昧で歌舞伎以外では初代八重子の新派くらいしか見もせぬ祖母が突然に宝塚、宝塚と何かと思えば「ベル薔薇」にて宝塚など見もせぬ祖母まで宝塚とはベル薔薇ブームも大したものと思へば実は宝塚の鳳蘭に確か遥くららだったか(失念)のベル薔薇、演出が長谷川一夫でベル薔薇。長谷川一夫の色気と気品がどの程度宝塚のベル薔薇に反映されたものか見ておらぬ余にはわからぬところ。長谷川一夫といへば祖母など林の頃からの贔屓ながら幼少の余にはその色気などわからずにいたがテレビの「笑点」の正月特番だかで司会の南伸介がいつもの笑顔もなく神妙な顔で「今日は特別出演です、長谷川一夫先生です」と紹介し長谷川一夫がテレビ舞台で黒田節を舞ったのだが、これが当時、六つか七つの余もぞくぞくするほどの舞だったもの。(閑話休題)でベルサイユであるが宮殿前の広場は天安門の如く宮殿内は故宮の如く中国人多し(写真)。宮殿内をば一応通り抜け庭園に出で並木道(写真)散歩すればすればすでに宮殿内のような群衆もおらずLe Marie Antoinetteが村里真似たといふHameau de la Reineに至る。現実の農村に重税を課しその潤沢なる上前を以てこの世の栄華愉しむ王族が絢爛豪華なる宮殿暮らしに飽きて農村をば模倣するといふのも可笑しな話ながら宮殿には何ら興味なくもこの村里「もどき」の農家の佇まい、英国のユートピア思想であるとか空想社会主義にも通じる、庭先の畑にて野菜栽培し家畜が遊び心落ち着く風景であるのも事実。宮殿より歩けば半時間ここまで訪れる観光客は殊更少なし。肌を刺すほどの日射しで気温は25度とか。晩に天気予報見れば独逸ミュンヘンの十月の平均気温13度が今日は22度、北欧のオスロから新西蘭のオークランドまで熱帯の高温のぞけば20度前後とまさに地球の気候までglobalism進む。さすがに炎天下宮殿まで戻る元気もなくカート式の車にて宮殿まで戻りVersaillesの市街のレバノン料理屋にて昼食。何故か客のほとんどがロゼの葡萄酒飲んでおり葡萄酒品書きも普通なら一番隅に追い遣られるロゼが主の如く坐しましてロゼを飲むのなど三十年ぶりくらいだろうか、久しぶりに飲んだロゼは赤でもなく白でもなくといふ時には当然ながら殊に昼には心地よきもの、あっさりとした混ぜもの系のレバノン料理には確かに合適と納得。午後の日射しも強くPicassoやFoucaultの愛した直射日光とはまさにこれかと合点するほどの白日夢、朦朧としたまま停車場よりパリ市街に向かう列車に坐ったあとはオルリー美術館站で目を覚ますまで記憶もなし。一旦ホテルに戻りふと写真機を見るといつもカラーフィルム入れているはずのContaxのT-2に白黒フィルム装填していたことに気づきHameau de la Reineにて色とりどりの花や緑に囲まれた農家の装い白黒にて写していたことに気づく。暫し午睡。美術館見学にと購った5日有効のCarte Musseも今日が最終日と午後三時頃にホテル出でセイヌ川渡りLouvre美術館に接したMusse de la Mode et du Textile(モード並に織物博物館)及びMusse de la Publicite(広告博物館)訪れれば閉館にて同じ棟の今ひとつ勉強にもならむMusse des Arts Decoratifs見学。メトロにてシテ島にと渡りSte Chapelleの教会お詣り有名なステンドグラス暫し見とれる。麦酒購いセイヌ川岸の石畳にて一飲、セイヌ川南岸に並ぶ建物の陰に隠れようよする夕日愉しむ。St-Michelよりオデオンまで散歩。オデオン写真機店に並ぶ中古のライカの美しさ。写真といへばパリの美しさは太陽の光線の斜め具合。被写体に何ともいぬ照らし具合、これが被写体を美しく演出。オデオンの市場にて惣菜だの葡萄酒購いホテルに戻る。ようやくホテルのビジネスセンタにてモデム接続できること判明、実はethernetの差込み口と思っていたソケットが実はモデム兼用!にてパリ市街であれば無料通信可、余が用いるiPassのパリ番号もフリーダイヤル。取敢ず他に利用者なければここから通信可。パリ滞在六日目にてどうにか通信可。別府の湯とか入浴剤持参しており風呂に入り月刊『新潮』に四方田犬彦氏綴る時代回顧「ハイスクール1968」読む。70年の三島先生の自決につき四方田氏は「兵庫県の農家に出自を持ち」「平民でありながら学習院に通学を許され」「徴兵検査に落ちた」その三つの過去に触れ三島が「神話の醸成に勤しむことができたのは、彼があれほどまでに呪詛したアメリカ風戦後民主主義が前提となってた」のであり「三島がキッチュ民族主義者の映像をえんじてしまったおかげで70年代において日本の右傾化には大きなブレーキがかかった」と四方田氏述べる。御意。それを平成のこの時代にやっているのが都知事。三島であり石原であり実は戦後日本の民主主義社会の申し子であり、そこで育ったことでidentityが形成されているのは事実。戦後民主主義といふ構造が崩壊すれば実はナショナリズムも何もidentityとして残らぬのかも。そういった意味では戦後民主主義での戦士でもあり。それにしても60年代より70年代初頭にかけて三島先生の自決であり浅間山荘であり大阪万博(これについては同じ『新潮』十月号の磯崎新浅田彰ら相手に述べる建築論で丹下健三の構造を岡本太郎が破ろうとした政治劇の逸話が興味深い)であり、少なくとも田中角栄の登場と石油ショックの時代まで、ウルトラマンが「帰ってきた」のそれ以降の陳腐さに陥るまでの時代は実に意味の深い面白い時代であったと彷彿。ちなみに72年の春、大学入試が終わった四方田氏は当時彗星の如く現れたウェザーリポートのコンサートを見ているのだが、この72年の時はまだジャコ加入以前?かどうか。夕方購った惣菜とEuro5.40とかなり廉価ながら日本なら1,000円、香港ならHK$95してしまうのであろう安葡萄酒で晩餐。長期滞在型ホテルといふのも便利なもの。
▼先日訪れたPicassoの美術館にて46年より52年のPicasso仏蘭西共産党の党員証、それに49年に描いた蝋燭を掲げた手の図案のポスター“Staline ata Sante!”も興味深し。スターリン主義全盛にて共産党がいまだ希望の思想であった時代。Picassoといえばピカソ家系図で何が可哀想かといへば二人の婦人と同じく二人の愛人のうち最初の夫人除く三人と子沢山ピカソの九人の子供のうち4人、つまり女性と子供の七人が写真でなく「ピカソの描いた肖像画」が本人の遺影の如く使われていること。どんな美人でも画家がいくらピカソかといへ自分をモデルにした絵が「あれぢゃ」嬉しくもあるまひ。芸術と商才に長けたパロマピカソもやはりピカソの絵の顔(笑)。
▼築地のH君より余が先日述べたビーマン航空につき「ビーマン航空は緬甸に非ず。バングラデシュ国が航空会社なり。嘗余が印度へ赴きし折泰国バンコックよりダッカ空港まで搭乗せしことあり。旅行会社の事務員曰く国際航空路中路賃最も安価なる航空会社の一也と。然雖機内食が鶏肉カレー頗美味にて添乗の女乗務員の容貌皆賤しからずことなど記憶にあり」と。
▼多摩のD君より。我れらが心のオアシス産経新聞にサイードの追悼記事あり、と。5段!の「これが実に驚くべき記事」とD君。表題からして「市民社会の原則貫くパレスチナ論」で産経に市民社会なる語彙肯定的に扱われるだけでも稀ながらカイロの村上大介なる特派員電にて、要旨は
イード氏の立場は宗教過激派の「拒否路線」とは異なり、あくまで公平な権利を実現する市民社会の理念に基づく「原則主義」に根差していた。本質的な問題を考慮せず、「和平」という美名の下に「パレスチナ問題」にふたをしてしまおうとする国際社会の態度への異議申し立てだったといえるだろう。/イラク戦争にも反対を唱えたサイード氏だが、その「原則論」は冷戦終結後の米一極集中化の中では少数派であり続け、ともすれば「非現実的」との批判も受けてきた。/しかし、パレスチナ問題に関する氏の指摘は本質的であり、「現実」もその通りに動いてきた。/…泥沼化し出口の見えないパレスチナ紛争の先行きを考えるとき、サイード氏が訴えた公正な解決が実現するのか、やはり悲観的にならざるを得ない。
と。D君曰く、中東報道では徹底的に米=イスラエル寄りの姿勢を貫いてきた産経新聞にもこんな記者がいたのかと愕然、と。だが確かにD君指摘の通り「この記事載せた外報部デスクの判断もわからぬ」のは確か。D君、「案外、デスクはサイード知らなかった、とか」と。嗤えず。余は、サイードの孤高の姿が自社と同じに映ったのかも、と察す。