富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月九日(月)快晴。十七代目市村羽左衛門丈の訃報。84歳。勘三郎松緑、白鴎といった戦後の歌舞伎界を背負ってたった大幹部連が相次いで亡くなり歌右衛門だけが残り昭和から平成にかけて最後の華そして姿を隠し、立ち役では仁左衛門が亡くきあとは独り病を堪えての舞台の数々、孝夫の仁左衛門襲名披露で口上を述べることのできる大幹部は羽左衛門翁だけだったのも一昨年の事、今年四月三津五郎襲名披露での口上までよくぞ頑張った、と合掌。思えば橘屋・萬次郎氏の海外歌舞伎公演が香港に来ることとなり手紙を送りしが何故か松竹の不手際にて手紙が父・羽左衛門氏に届き、突然の翁から私にいただいた電話、驚く私に「息子宛の手紙と知りつつ失礼を承知で読ませていただけば香港公演に何かご協力いただけるとの事、僭越ながら私からもくれぐれも宜しくお願いいたします」と誠にもって丁寧な羽左衛門丈、それが縁でその萬次郎・吉右衛門の香港公演にて予も生まれて初めて大向こう気取りで「藤娘」と「鳴神」にて掛け声をかけた次第。97年には台湾は台北、高雄と今度は羽左衛門・萬次郎が親子で公演にて高雄まで一泊二日にて羽左衛門丈の舞台を拝みに出かけ「大橘」と声を掛けさせていただいたも今となっては思い出。新聞の訃報を読めば弁天小僧での日本駄右衛門が挙げられ「重厚、堅実な芸風」というのは役者としての上手下手ではなしに、つまりこの人はそういう存在していることで場が纏まるという、市村の家が市村座の胴元である由縁、そういう人柄であるからそこ私なんぞにああいう電話での興業按配できるものと察した次第。再び合掌。こうなると松竹の無節操な襲名デノミにて喪も明けるか明けぬ内に18代目はやはり長男・彦三郎か、そして亀三郎が嗣ぐのか、話はかなり込み入るが、幕末に12代目羽左衛門(妻が3代目菊五郎の娘)がそもそも話の始まり、この長男が明治の団菊左の五代目菊五郎にて次男が14代目羽左衛門を襲名。この段階にて菊五郎の名が役者としては羽左衛門より格が上になるのだが、14代目の養子が戦前の歌舞伎界に咲いた名華・15代目羽左衛門である。しかしこの羽左衛門も養子(16代目)をとったで跡が途絶え、羽左衛門の名は五代目菊五郎の次男六代目彦三郎(ちなみにこの彦三郎の兄が六代目(菊五郎)である)の家へと移りその長男が当代の17代目となるのである。当代はつまり叔父が六代目、従兄弟が九朗右衛門、梅幸(六代目養子)、勘三郎(娘婿)であり、つまり現・彦三郎と萬次郎は現・菊五郎勘九郎と再従兄という間柄。名跡ではあるが、特筆すべきはやはり15代目の羽左衛門だったわけで、今の橘屋の流れではどうも15代目に比べると市村座の胴元が役者に転じたことで音羽屋(菊五郎)の亜流という立場を免れぬのはつらいところか。勝手な期待をいえば萬次郎長男の少年・竹松君が19代目か20代目を襲名し祖父の残した大名跡を再び大きくしてもらいたいところ。夜、美孚にて藪用、香港にながく暮らし初めて美孚を訪れ、地下鉄を出ればいきなり高層マンションながら、どこか聖蹟桜ヶ丘桜上水のような私鉄沿線の住宅地を感じさせるのはここが70年代という香港では初めての鉄道沿線住宅開発地であったからか、美孚にある茘枝角公園にて黄昏水泳、藪用済ませ夜晩く尖沙咀にてジム。帰宅して冷えた慈雲山の湧き水にてGlenmorangieを水割り(氷なし)、この水のまろやかさに驚く。