富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

渡辺保『歌舞伎 型の魅力』(角川書店)

辰年二月廿八日。気温摂氏7.6/14.0度。曇。朝に小雨(4.5mm)。


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香港から頻繁に海外旅行するときに海外でのモバイルにローミング用ゐると料金が高いのでGlocalMeのサーヴィスを使ふやうになつたが日本に帰国してから海外に出てゐないのでGlocalMeで当初購入の端末(G2、画像左)はもう5年近く使つてゐなかつたのだがバッテリーがイカれて充電しても2時間ほどしかもたない。これの背中には台湾のEva Airのサンリオシールが貼つてあつた。このたび新規購入はG4(画像右)で2万円ほど。香港ドル支払ひだとHK$1000で格安感を感じてしまふ。薄く軽量だがG2にあつたモバイルバッテリー機能はない。

歌舞伎 型の魅力 (角川ソフィア文庫)

渡辺保歌舞伎 型の魅力』(角川書店)読む。熊谷陣屋、千代萩政岡、八重垣姫、忠臣蔵勘平、寺子屋、いがみの権太、合邦玉手御前などにつき、それらの役を形にした役者の「型」を、渡辺保先生も実際には見てゐない九代目や五代目歌右衛門まで含め残したことは実に意義のあることだらう。型の違ひよりそれぞれの役者の役に対する解釈が何う違ふかまで面白いところだがディテールに言及が細かいので演じ手や見巧者でもない者には読んでゐても些か食傷気味ではある。

中車の光秀のクライマックスなるあらわでいたる竹智光秀で、一旦戸口に立つ。そして後に床のノリのチン/\で下手へトン/\/\と下り、又、床のチヽヽ……チン/\で笠を後ろへとつて、ツケ入りの大見得をするところがある。あすこを私は時々自分の口の中でチン/\チヽヽチン/\、ガッチャン(ツケの音)とくり返してみる。すると、まさに中車のあの笠をとる快い大見得が目前に浮かび出す心地になる。が、なぜ私はかう云ふ愚かな事を云ふか。(略)「旧劇とは結局、チン/\チヽヽチン/\、ガッチャン」だと信じてゐるからである。
三宅周太郎「『太十』研究」『歌舞伎研究』所収 昭和17年 拓南社刊)

渡辺保が「型の秘奥」として挙げてゐるのは能役者の友枝喜久夫なのだ。喜久夫の仕舞が終わったところで(地謡の友枝雄人によれば)稽古のときと全く違ふところで不意に喜久夫の強い足拍子を一つ踏んだのださう。

その足拍子は、木造平屋造りの友枝家の稽古舞台を揺るがす裂帛の気合いであった。見ていた人間はみんなその激しさに息の呑んだのである。あれは型ではないのか。とするとその日友枝喜久夫は「型破り」をしたことになる。しかしあの足拍子こそ、彼がほとんど命だけで踏んだ拍子であった。(略)型とはなにか。私はその秘密を友枝喜久夫の「型破り」に見た気がする。型とは破るためにあるのではないか。破って、超えて、そして自由になる。このための方法論が型であり、型を正確に、おのれを空しくして、くり返しやることがそのために必要なのである。破ることができるほどくり返す。一方で友枝喜久夫は律儀なまでに型を変えない人だったからである。そして型を超えたときに自由になる。そこに現れた自由こそ芸術家の真の意味の自由である。

甲辰年二月廿七日

気温摂氏8.5/12.8度。曇。朝と夕に小雨(1.5mm)。

ETV特集小澤征爾 日本人と西洋音楽』(1993年初回放送)を録画で見る。伯林フィルでの活躍に重点置かれた映像。1935年生まれのセイジオザワは58歳でまさに一番生気漲つた頃だらう。水戸芸術館の開館が1990年で同年4月のMCO(水戸室内管弦楽団)の第1回定演は小澤征爾指揮でロストロポーヴィチのチェロで記念碑的な演奏会。


小澤の率ゐるMCOは1998年に訪欧公演をするまでになり吉田秀和館長の逝去で2013年に小澤征爾が館長就任に至つた。この第1回定演の最後でステージに上がつた吉田秀和館長の挨拶。水戸の市政百年の記念にこの芸術館ができたが、その百年とはまさに日本に西洋音楽が入つてきて日本人がそれを勉強して演奏をしてきた百年。それが今では小澤征爾のやうな世界に通用する指揮者が誕生して世界レベルでソリストとして演奏できる人たちがゐて、その人たちを集めて作つたのがこの管弦楽団で、これは僕から水戸の皆さんへのさゝやかなプレゼントです、と。日本はもう西洋音楽を勉強するのではなく、自動車産業のやうに、日本の素晴らしいものを世界に誇ること出来るし、行政もこの水戸芸術館のやうに日本各地でこんな芸術活動ができる時代に期待を寄せられてゐる。その言葉を信じたい。

それが、それから30年。日本は政治も腐りきつた上に、自然災害となれば台湾のやうなかうした災害対応もできない、もはや三等国なのかしら。なんでこんなにダメになつたのか。

表章「梅原猛の挑発に応えて」

辰年二月廿六日。清明節。気温摂氏11.8/20.2度。曇。東京で桜満開は史上2番目に桜の開花早かつた昨年より13日遅く4月になつたのも7年ぶりなのださう。
3月にネットで拝見したこちらのセミナー。

翁と摩多羅神 - 富柏村日剩

しかしマダラ神を持ち出すまでもなく能で翁が程度の差ことあれ「聖別化」されすぎたのは戦後のことで能なんてものは黒川のみならずいい加減に見て良いのだらう。我々が式能であるとか大河ドラマとかで戦国武将が城内で神妙な表情え能を見てゐるやうなイメージも能は神聖なものといふ印象を増幅してゐるのかもしれない。ところでその日の日記(3月10日)に引用した多武峰安楽寺)祭事について。当時、能楽の世界にまで梅原猛先生のあの世界の感染あり。梅原史観をすつかり信奉したやうな能楽師もゐたのだとか。梅原猛には『うつぼ舟II 観阿弥と正成』といふ著作があつて観阿弥の出身を伊賀として観阿弥の母の姉が楠木正成の妻とまで断定してみせた。観世は南朝遺臣といふやうな見立て。それに対して敢然と謂はゞ「学憤」示したのが碩学表章おもてあきら先生(1927~2010)。

昭和の創作「伊賀観世系譜」: 梅原猛の挑発に応えて

表章昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社)通読。著者はこれの上梓された2010年9月に逝去。まさにこれが遺作。出版で「トンデモ本」に対する「反論本」はいくつもあるが緻密なデータ分析の上で相手の珍説をきちんと論破する姿勢が立派。「これを書いておかねば後世を誤る©湛君」の矜持そのもの。表先生によつて明らかにされたことは、この観世の系譜が昭和になつてからの創作といふこと。贋作かといふと何か本物があつて、それに似せて山寨の品を作れば贋作だが伊賀の旧家が自らの家系に箔をつけたいといふものなら(日本の家系などどんな田舎の百姓家でも源平藤橘のいずれかを辿れるやうに)それは自由な「創作」そのもの。だが学者としての梅原猛なり白洲正子のやうな文筆家が、それをホンモノとして扱ひ文章にすれば、それは問題視されて当然なわけで更に梅原猛が観世の伊賀系譜説を否定する研究者(具体的に表先生)に対して「私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う」「日本の学問のためにも、この論争を表氏は決して避けてはいけないと思う」とまで公言されたら、それは表先生は受けて立つ、その勝負に勝つて死にたい、と思ふのは当然だらう。結果、梅原猛は更に晩節を汚すことに。梅原猛は中学のとき京都、奈良への修学旅行を前に数学のO先生に「おまえはこれとか好きなんぢゃないかい?」と『隠された十字架-法隆寺論』勧められて面白く読んだ。奈良と京都なんて小学生のときに1つ年上のS従兄と奈良京都は楽しく二人旅してゐたので中学の修学旅行なんて行く前から「うんざり」気分。なにせ体育館で上野〜東京間の「国電の乗り降り」まで練習するのだ。そのうんざり感に梅原本を数学のO先生が「おまえは……」と勧めてくれたセンスに本当に感謝。面白く読んだが今では郷土史家としてご立派なJ君と「なんで法隆寺論で「十字架」なのかねぇ、まったく」と素朴な疑問。柿本人麻呂についての論考『水底の歌』は中学生ながらに一寸胡散臭くないか?と思へたものだつた。澤瀉屋とのスーパー歌舞伎はアタシの澤瀉屋苦手もあつて「ごめんなさい」。九条の会への参画は立派だと思ふが中曽根大勲位との近さで国際日本文化研究センター設立に寄与して学者といふか何だか胡散臭い興行師に思へたのである。「学問といふか、哲学でもないし歴史でもないし、あゝいふ思ひ付きを平気で言ふといふのは耐へられない」(宮地正人)。それにしても表章の「矜持」に頭の下がるばかり。

(自民)裏金問題で39人処分を正式決定 塩谷と世耕に離党勧告:朝日新聞

塩谷氏は弁明書で「不記載に気づけず止められなかった批判は甘んじて受ける」としつつ不記載を知ったのは「昨年の事件発覚の際」だとし「還付や不記載を画策したり、主導したりしたことはない」と主張。「まるでスケープゴートのように清和研の一部のみが確たる基準や責任追及の対象となる行為も明確に示されず不当に重すぎる処分を受ける」のは「到底受け入れることはできない」とした。また党の規律規約に規定される弁明の機会すら与えられなかったと主張。「総裁も含む党の少数幹部により不透明かつ不公平なプロセス」で処分が実質的に決まったことは「自由と民主主義に基づく国民政党を標榜するわが党そのものの否定だ」と断罪した。……仰る通り。だがクソのやうな自民党を批判できてもクソに代はる何か代替健康食品があるかといふと、それすらない。

〈源氏〉が杜の都に隠れた宝石とは?

辰年二月廿五日。気温摂氏7.5/15.8度。曇のち雨(14.5mm)。台湾の花蓮でM7.7、震度6強の大地震あり。

台湾一周の旅6日目 花蓮から太魯閣 - 富柏村日剩(20040812)

この日から2泊3日このあたりに遊んだ。温泉旅行。もう20年も前とは。普段でも渓谷の道を歩くと岩や大きな石が落ちてくる太魯閣である。この地震でどれほどの崖崩れなどあつたことか。数百人が渓谷の先の宿泊施設等に孤立の由。2018年の夏には台南から台北に戻るのに高雄まで南下して東部幹線で花蓮を経由して台北に戻つてゐた。

台南→高雄→台東→花蓮→台北 - 富柏村日剩(20180705)

温泉旅行の近現代 (582) (歴史文化ライブラリー 582)

高柳友彦『温泉旅行の近現代 』(吉川弘文館)読む。原武史(戦後政治と温泉)、酒井順子(鉄道無常 内田百閒と宮脇順三)に続き、そのテのを読んだわけだがきちんと温泉への旅行の歴史をまとめてゐるが、これが講談社だとか平凡社だつたら編集者がもう少し面白みを加へたいとするところだらう。吉川弘文館らしさ、といへばそれまでだが。時代的には英国で倫敦からブライトンへの日帰り旅行が始まつたやうな、日本でのさういふ時代からのレヂャーがかうした温泉旅行だつたはず。その中でもアタシなどにとつては本来の温泉ではなく昭和30年代からの東京近郊でいへば船橋ヘルスセンターであるとか、少し遠いところでは常磐ハワイアンセンターであるとか、さうしたレヂャー施設が懐かしい。船橋のそれは現地の天然ガス採掘からの努力の成果で「大ローマ風呂」は子どもながらに小汚いし大宴会場でのワケのわからない大人たちの寛ぎぶりに閉口させられた懐かしい記憶。東京近郊なら綱島温泉とか注目すべき場所はある。

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BRUTUS 4月15日号「旅したい、日本の酒場」を読む。この特集でトップが仙台で文化横丁の〈源氏〉とはあばらかべっそん。勿論本当に和める居酒屋であつた。昭和のあの当時でも戦後の、昭和30年代そのまゝの文化横丁で〈源氏〉があつた。それがこの記事で、こんな小粋な子綺麗な店として扱はれてゐた。

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昔は気軽な酒場だつたが築地H君に尋ねると〈源氏〉は人口に膾炙す、で混雑してゐてなか/\入れないのだとか。「隠れた名店」としてあちこち取り扱はれすぎてゐるのだとか。仙台では「いろは横丁」がブームになつて、その次のターゲットが文化横丁なのださう。

ふれあい百店街・壱弐参(いろは)横丁 | 昭和レトロがのこるダテな横丁

仙台で国分町が賑やかすぎて一番町も青葉通りを東北大学の方に渡ると商店街も丸善とかヤマハの仙台店があつて落ち着いてゐて横丁に入れば市場のやうな雑多ななかに安い酒場があるのが快適だつた。直近では、といつてももう10年も前だが2014年の8月に文化横丁のバーSに旧知の仲間と飲んだくれてゐた(仙台 - 富柏村日剩)。

なんかいやな感じ

辰年廿四日。気温摂氏4.6/18.1度。晴。

なんかいやな感じ

武田砂鉄『なんかいやな感じ』(講談社)読む。武田砂鉄といふとTBSラヂオ(金)の夜の番組での軽妙かつ巧妙、緩いやうで突っ込まれたら十分に反論できる理論武装されたトークが見事で書き物も『女性自身』の連載などとても面白い。この『なんかいやな感じ』も評判で楽しみに読んだが一言でいへば「なんかいやな感じ」そのもの(笑)。なんでこんなことにコダワルのだらう、といやな感じ。そこが狙ひなのかもしれないが、いやな感じ。これが好きな読者には「たまらない」だらう。アタシはツボにハマらず。もと/\は文芸誌『群像』の連載で同誌で橋本治の絶筆「近未来としての平成」(2019年4月号)を受ける形で随筆の連載として始まつた「近過去としての平成」として連載されたものなのださう。

カーティス先生仰せの通り、だらう。

コロナ禍で3年間日本を離れましたが日本に戻ると政治家も評論家も3年前と同じ議論をしていてがっかりしました。世界はものすごく早いスピードで変わっているし日本も大胆に変わらなければ手遅れになってしまいます。日本の変化はペースが遅すぎて世界とのギャップが広がるばかりです。
まず有権者が行動しなければ政治家は動こうとしません。時間の経過とともに批判も収まって結局は「何も変わらない」と思っているのかもしれない。国民はいつまでこういう政治を許しているのでしょうか。
裏金問題への国民の怒りが本当に日本の政治を透明化させる力になるか。このままでいけば、いずれマグマが噴出してポピュリズムに席巻される恐れもあります。増税の必要性には口を閉ざしナショナリズムと結びついて国を誤りかねません。いまの政治はそういう危険を抱えています。変えるかどうかを決めるのは、最終的には国民の責任なのです。

日本の「近未来」を担ふのは〈維新〉なのだ、きつと。個人的には代々木の民主集中制には心底疑ひの感あるが直近で考へると地元選挙区でいへば福島伸享のやうな無所属保守と代々木に投票が最も有効な気がする。最近、中核派の〈前進〉を眺めても「真っ当なこと言ってるよな」と思はされるほど世の中の軸がズレてゐるのだ。

(青春18きっぷ)奥多摩から川越へ

辰年二月廿三日。気温摂氏7.9/15.9度。薄曇。気温は温度よりも体感でかなり寒く感じる(風は最大11mほど)。青春18きっぷあり東京駅を09:19発の中央線快速で青梅へ。青梅線は確か羽村までだつたかは行つたことがあつた。昭和の終はり頃に当時、谷保(国立市)に仮住まひしてゐたのだが新宿で飲んで乗つた中央線快速が青梅行きで立川で下車し損なひ、この列車が終電で戻ることもできず中央線で一緒だつた同輩の家に泊めてもらひ翌朝帰宅。青梅線でも青梅から先の奥多摩まで行つてみたい。多摩に育つた家人は地元だが本日の乗り鉄に付き合つてくれた。


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青梅が東京駅から91分。奥多摩に着いたのは東京駅を出て2時間16分後で奥多摩とはいふがこんな山間だとは想像してゐなかつた。青梅を過ぎると多摩川が渓谷で青梅線は崖上を縫ふやうに走り、そこから多摩川を眼下に眺める景観。奥多摩駅はすつかり登山の玄関口で入山申告書の窓口があつたり更衣室や登山靴を洗ふスペースまであるとは。


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青梅(電氣)鉄道、それに未完の奥多摩電氣鉄道の未完部分が戦時下に国有化され青梅線となり全線の開通が昭和19年7月。当時から電化されてゐたがこんな困難な鉄道が開通したのも氷川駅(現奥多摩駅)に隣接した石灰石採掘があつたから。


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路線バスは現在、西東京バスが運行してゐるが、これもかつては青梅電氣鉄道の傘下。奥多摩町は人口5千人余で採算も合はない路線バスも貴重な交通機関


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駅から集落を少し歩き氷川大橋から多摩川(正確にはこゝは日原川)の渓谷を眺める。からうじてスマホで画像は撮つたが足がすくんで手は震へスマホを谷底に落としかねない。


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駅に近い「奥多摩の台所」で日替り弁当調達で西東京バスの待合所?でお昼。奥多摩滞在は55分で12時半発の青梅線電車に乗る。


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青梅からの東京行き車内に泥酔客あり。中央線快速は基本折り返し運転なので、もう午すぎとはいへ、この酔客は差し詰め早朝に中央線に乗つて何往復したのか数時間このまゝ熟睡してゐるのだらう。往路の青梅から奥多摩に向かふ車内にもかなり酒臭い若者がゐて彼も立川か福生で飲んでゐて下り電車に乗つてしまひ青梅駅でどこかわからぬまゝホーム反対側の電車(奥多摩行き)に乗つてしまつたやうだつた。途中駅でそこがどこかもわからぬまぁ電車を降りていつた。青梅駅で東京行きの快速に乗り換へ拝島へ。青梅駅拝島駅も駅の鉄道スタンプは窓口で求めれば出してくれる作法。4月1日とあつて若者の通学定期券購入だとか慣れない路線で迷つたか窓口混雑してゐて数分の乗り継ぎ時間でスタンプを出してもらふのも憚られた。拝島を13:42の五日市線で武蔵五日市へ。

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多摩丘陵にこんな平地があり畑が広がつてゐるとは。武蔵五日市駅に入る手前で線路は丘陵に入る。高校のとき友だちがゐて武蔵五日市まで遊びに来ていた家人は駅舎も近代化され駅前も随分と様変はりと驚いてゐた。折り返しの電車で拝島に戻る。鉄道の要所である拝島では引っ越してきたばかりの若者が立川、八王子に出る手段で右往左往も少なからず。14:31に拝島を発つ川越行きに乗車。八高線高麗川まで下り川越線に入る。青梅線の青梅以遠、五日市線と同様に川越線も本日が初めて。「小江戸」だとか昔の情緒たつぷりと川越は東京近郊の観光スポットとして鎌倉のやうに人気。一度くらゐ散策してみようかと時間をとつた。JRの川越駅東武東上線川越駅とのターミナル。東武東上線も沿線に大学など多いから駅コンコースに特設の学割定期券売り場は長蛇の列で最後尾から2時間待ちと表示あり。こゝでも駅員が「その大学なら東武じゃなくて本川越から西武新宿線に」なんて教へられてゐた。川越の所謂「蔵造りの街並み」も一度くらゐは見ておきたいが川越駅からは少し遠く川越の滞在時間は81分なので路線バスに乗車。路線バスは西武線本川越駅を経由して道路幅の狭い街並みに入るから自動車と観光客でかなり危険なほどで渋滞。


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「札の辻」から蔵造りを歩くがテレビ番組で紹介されてゐるのをなぞつてゐる感じ。

川越|2023年1月7日|出没!アド街ック天国:テレビ東京


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それにしても明治時代の大火のあと防火建築で建てた蔵造りが戦争で空襲にも遭はず残つたことで今となつてはこんな観光資源になつたのだから。外国人観光客とりわけ香港からの旅行者の多いこと。広東語ばかり。ちなみに香港はイースター連休で香港から海外に脱出した市民は総勢168万人なんださう。この期間に香港を訪れた旅行者は33.8万人。その差が135万人とは。香港市民にとつては休日に香港を脱出することだけが楽しみの日々なのかしら。観光客溢れる「蔵の街」はもう十分で連雀町から新富町へ地元の商店街に入る(クレアモール)。百貨店(丸広)が健在で地元の商店も頑張つてシャッター商店街になつてゐないだけ嬉しく思ふ。JR川越駅まで2kmも狭い石畳みの商店街が続く。こちらの方がよほど昭和からの懐かしい商店街のやうで歩いてゐて楽しかつた。


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川越駅を16:45発の埼京線(通勤快速)に乗車。大宮まで、で川越線completedでそのまゝ埼京線乗り入れで武蔵浦和に停車しただけで赤羽。驟雨。池袋に17:36着で雨は幸はひ止んでゐた。ハロンS氏のオフィスが池袋東口にありS氏は昨晩遅く5年ぶりだかのドバイ競馬から戻られてゐて急きょ連絡をとり夕食をご一緒してもらふことに。香港で最後にお会ひしたのが2019年末の香港国際競馬だつたはず。東口でジュンク堂書店の横を護国寺の方に入つたところにある硯家といふうどんやはS氏がお昼にうどんをよく啜る馴染みの店でうどんがメインだが酒肴も充実してゐて日本酒も通好み。旧交を温める。とても良心的な食肆で気にいつた。ところで家人は幼いころに豊島園駅近くにも住んでゐて西武線住民なのだが池袋は駅の構造がよくわからないといふ。東口といはれたのに、なぜ池袋駅では南口に出るのか。確かにわかりづらいだらう。最後の山かけのうどんまでしつかりいたゞき池袋から上野に出て帰途につく。本日の「乗り鉄」は乗車距離運賃は7,810円なので、それを青春18きっぷ(2,410円)で楽しませていたゞけた。

戦後政治と温泉、鉄道無常

辰年二月廿二日。魁春忌。気温9.1/24.1度。晴。家人がFMで聴いたラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の所謂「弾き振り」が凄かつたといふ。それはコロンビア交響楽団での演奏だつたさうだが映像でこちらがあつたので、それを聞く。1975年のパリ、フランス国立交響楽団での演奏。

 本当にこのバーンスタインといふ音楽家のためにすべてが仕込まれたやうな演奏会。こんな「出来過ぎ感」は長嶋茂雄小澤征爾同様に天から舞ひ降りてくるらしい。

歌舞伎「人情噺文七元結」 - 古典芸能への招待 - NHK

音羽屋(菊之助)は才能に恵まれてゐる。それでもどこか役になりきれないといふか、この芝居でいへば長兵衛のあまりの無防備な情や「てやんでぇ」感が弱い。中村屋澤瀉屋なら先代も倅や甥も若いときから汗だくで熱演してゐたやうな。それでも仁左衛門丈だつて若いころは線が細かつたのが大役もこなすやうになつたのだから今どき46歳なんてまだこれからなのかも知れない。文七元結は先日、三三師匠の噺で聞いたあとだつたで余計に面白味に欠けて思へたのかもしれない。角海老女房お駒の萬次郎がセリフ回し上出来。文七役の萬太郎やはり芝居上手。小柄で文七役はこれで良いが大役が待ち受けてゐるわけで、あとは演技力でどれだけ役を大きく見せるか、だらう(中村屋音羽屋が出来たやうに)。

戦後政治と温泉 箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間

原武史戦後政治と温泉 箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』(中央公論社)読む。戦後の箱根や熱海で政治家の温泉政治。これを湯治といふ、と原先生(ウソである、今思ひついた)。政治家の日記や回顧録、当時の新聞記事から温泉政治実態をよくまとめてゐる。だが「なぜ戦後の一時期、温泉と政治は強く結びついたのか?」と帯にあるのだが「なぜ」は「箱根の景勝地に温泉があつたから」でしかなく書かれてゐることは「どのように戦後の一時期、温泉と政治は強く結びついたのか?」だらう。とても精緻な研究なのだが読後感としては「だからどうした?」なのだつた。赤坂の料亭/があつて箱根の温泉/があつて当時の政治家のオジサンたちは政治を好きに動かしてゐた、なるほどね、である。

酒井順子鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』(角川書店)も通読。百鬼園も宮脇先生の紹介本のやうで両者とも一通り読んでゐる身には特に目新しいこともなし。そも/\「鉄道無常」といふタイトルが好けない。

む‐じょう 【無常】 ムジヤウ
①〔仏〕一切の物は生滅・変化して常住でないこと。方丈記「その、主と栖と、―を争ふさま」。「諸行―」
②人生のはかないこと。「人生の―を知る」
③人の死去。徒然草「―の身に迫りぬる事を心にひしとかけて」【広辞苑第七版】

百鬼園も宮崎も「鉄道が好きだから鉄道に乗つてゐる」わけで「無常」でもなんでもない。寧ろ「有情」である。原武史の箱根の「湯治」で「どのように」を「なぜ」と言ひ替へしてみせた修辞同様に、この「無常」も宜しくなく受け入れ難いところ。

ドバイワールドカップデー | 競馬まとめ - netkeiba

日本調教馬G1は勝ちナシ。UAEダービーは一昨年のクラウンプライド、昨年のデルマソトガケに続きを3連覇。

ルメール騎手がドバイターフで落馬、病院搬送…シーマCはデットーリ、WCはマーフィーに乗り替わり | 日刊スポーツ