富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

表章「梅原猛の挑発に応えて」

辰年二月廿六日。清明節。気温摂氏11.8/20.2度。曇。東京で桜満開は史上2番目に桜の開花早かつた昨年より13日遅く4月になつたのも7年ぶりなのださう。
3月にネットで拝見したこちらのセミナー。

翁と摩多羅神 - 富柏村日剩

しかしマダラ神を持ち出すまでもなく能で翁が程度の差ことあれ「聖別化」されすぎたのは戦後のことで能なんてものは黒川のみならずいい加減に見て良いのだらう。我々が式能であるとか大河ドラマとかで戦国武将が城内で神妙な表情え能を見てゐるやうなイメージも能は神聖なものといふ印象を増幅してゐるのかもしれない。ところでその日の日記(3月10日)に引用した多武峰安楽寺)祭事について。当時、能楽の世界にまで梅原猛先生のあの世界の感染あり。梅原史観をすつかり信奉したやうな能楽師もゐたのだとか。梅原猛には『うつぼ舟II 観阿弥と正成』といふ著作があつて観阿弥の出身を伊賀として観阿弥の母の姉が楠木正成の妻とまで断定してみせた。観世は南朝遺臣といふやうな見立て。それに対して敢然と謂はゞ「学憤」示したのが碩学表章おもてあきら先生(1927~2010)。

昭和の創作「伊賀観世系譜」: 梅原猛の挑発に応えて

表章昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社)通読。著者はこれの上梓された2010年9月に逝去。まさにこれが遺作。出版で「トンデモ本」に対する「反論本」はいくつもあるが緻密なデータ分析の上で相手の珍説をきちんと論破する姿勢が立派。「これを書いておかねば後世を誤る©湛君」の矜持そのもの。表先生によつて明らかにされたことは、この観世の系譜が昭和になつてからの創作といふこと。贋作かといふと何か本物があつて、それに似せて山寨の品を作れば贋作だが伊賀の旧家が自らの家系に箔をつけたいといふものなら(日本の家系などどんな田舎の百姓家でも源平藤橘のいずれかを辿れるやうに)それは自由な「創作」そのもの。だが学者としての梅原猛なり白洲正子のやうな文筆家が、それをホンモノとして扱ひ文章にすれば、それは問題視されて当然なわけで更に梅原猛が観世の伊賀系譜説を否定する研究者(具体的に表先生)に対して「私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う」「日本の学問のためにも、この論争を表氏は決して避けてはいけないと思う」とまで公言されたら、それは表先生は受けて立つ、その勝負に勝つて死にたい、と思ふのは当然だらう。結果、梅原猛は更に晩節を汚すことに。梅原猛は中学のとき京都、奈良への修学旅行を前に数学のO先生に「おまえはこれとか好きなんぢゃないかい?」と『隠された十字架-法隆寺論』勧められて面白く読んだ。奈良と京都なんて小学生のときに1つ年上のS従兄と奈良京都は楽しく二人旅してゐたので中学の修学旅行なんて行く前から「うんざり」気分。なにせ体育館で上野〜東京間の「国電の乗り降り」まで練習するのだ。そのうんざり感に梅原本を数学のO先生が「おまえは……」と勧めてくれたセンスに本当に感謝。面白く読んだが今では郷土史家としてご立派なJ君と「なんで法隆寺論で「十字架」なのかねぇ、まったく」と素朴な疑問。柿本人麻呂についての論考『水底の歌』は中学生ながらに一寸胡散臭くないか?と思へたものだつた。澤瀉屋とのスーパー歌舞伎はアタシの澤瀉屋苦手もあつて「ごめんなさい」。九条の会への参画は立派だと思ふが中曽根大勲位との近さで国際日本文化研究センター設立に寄与して学者といふか何だか胡散臭い興行師に思へたのである。「学問といふか、哲学でもないし歴史でもないし、あゝいふ思ひ付きを平気で言ふといふのは耐へられない」(宮地正人)。それにしても表章の「矜持」に頭の下がるばかり。

(自民)裏金問題で39人処分を正式決定 塩谷と世耕に離党勧告:朝日新聞

塩谷氏は弁明書で「不記載に気づけず止められなかった批判は甘んじて受ける」としつつ不記載を知ったのは「昨年の事件発覚の際」だとし「還付や不記載を画策したり、主導したりしたことはない」と主張。「まるでスケープゴートのように清和研の一部のみが確たる基準や責任追及の対象となる行為も明確に示されず不当に重すぎる処分を受ける」のは「到底受け入れることはできない」とした。また党の規律規約に規定される弁明の機会すら与えられなかったと主張。「総裁も含む党の少数幹部により不透明かつ不公平なプロセス」で処分が実質的に決まったことは「自由と民主主義に基づく国民政党を標榜するわが党そのものの否定だ」と断罪した。……仰る通り。だがクソのやうな自民党を批判できてもクソに代はる何か代替健康食品があるかといふと、それすらない。