富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月廿六日(月)薄曇。中公新書竹内洋著『教養主義の没落』読む。当然、教養主義の没落歎く追憶の書に非ず「大正時代の旧制高校を発祥地として、その後の半世紀間、日本の大学に君臨した教養主義教養主義者の輝ける実態と、その後の没落過程に光を当てる試み」と紹介にあるように、どちらかといふと教養主義に否定的であることは読む前より推測可、岩波であるとか『世界』が槍玉に挙がることも明白。余談だが著者は大学時代に『世界』の理想論に飽き足りず読み始めたのが『中央公論』とのこと(笑……この著作は中央公論新社刊)。で、著者が何に目くじらたてているかといへば、和辻哲郎の「世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前にひざまづくことを覚えたまえ。ばかばかしい公衆を相手にして少しぐらい手ごたえがあったからといってそれが何だ。君もいっしょにばかになるばかりじゃないか」という文章を引用し、著者は、教養主義を「万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度」と定義し「教養主義を内面化し、継承戦略をとればとるほど、より学識をつんだ者から行使される教養は、劣等感や未達成感、つまり跪拝をもたらす象徴」と否定する。一瞬、マルクス主義とか岩波文化といった進歩的なるもの著者は嫌ふ、単なる保守主義かと思えばそうでもなく、何せ著者は引用するのがフランスのまさに教養的なる社会学者のBourdieu教授の社会理論だし、著者自身が1942年生れで新潟の田舎出、まさに戦後民主主義の活気ある時代に教育受け、京大教育学部から同大大学院で博士号授けられ関西大学社会学部教授、京大教育学部教授歴任し同大大学院で教育学の教授と著者ぢたいが「絵に描いたような」教養の真っ直中にある方、で何を著者が否定するか、といえば、ようするに自らの思考が実はないまま、教条主義的に党やアカデミズムで上からの受け売りそのまま「あてがいぶち」に教養的なるものをまるで自らの血や肉の如く偽る態度が憎いらしい。であるからして近親憎悪なのかこの著作での「岩波書店という文化装置」なる章での創業から戦後の高揚期にかけての岩波書店マーケティング分析はかなり熱が入る。で、戦後は結局、大学がエリート養成機関から単なるサラリーマン予備軍の収容所と化し、その中で教養主義も没落するのだが、それぢゃ著者は教養主義を否定する代わりに何を提唱するのか?が最後まで疑問。で最後にそれが提示されるのは例に昭和の衆議院議長の故・前尾繁三郎君をば例として、教養とは「現実の政治や官吏としての仕事を相対化し、反省するまなざし」であり、教養とはひけらかすものでも得をするものでもなく「自分と戦い、ときには周囲に煙たがれ、自分の存在を危うくする、「じゃまをする」もの」と。教養など絵に描いた餅を後生大事に高いところに掲げるのではなく現実で厳しく切磋琢磨されてこそ……と、結論は正論であるが実に真っ当すぎて、文藝春秋や『諸君』の稚拙ながら暴論に慣れた余=読者には、この著者の余りに教養至上主義的な結論に一瞬「ん?」と感じるのだが、奥付け眺めて「なるほど」と思うは、この地味な本が昨年の初版から僅か二ヶ月で5版までの好売上げ、昨年の新書ブームあるとはいえ一般の読者には「ケータイを持った猿」だの養老「バカ」本だのに比べて「とっつきにくい」教養主義で誰が読んでいるかといへば実は著者と同じ環境にある今の四十代以上の大学の「教養家」たちなのだろう、きっと。そう確信したのは、この本の最後で「教養教育を含めて新しい時代の教養を考えることは、人間における矜持と高貴さ、文化における自省と超越機能の回復の道の探索である」なんて、今どきこんな高尚な?大時代的なる教養の提言あり、そう思った次第。この書籍でいくつか難をいへば、詳細に亘る戦前と戦後の大学生の読書傾向だのの社会学的分析は多少うんざり。それに著者のステレオタイプな分類には多少疑問もあり、例えばダンスや異性遊びが得意な「軟派」に対して「硬派」=運動部としてしまっては旧制学校での教養主義プラトニックラブ、「友情」についての「絡み」の思慮に欠けるし、近代日本のサブカルチャーをハイカラ、教養主義、江戸趣味、修養主義と4つに分類し、教養主義が田舎者の戦略であるのに対して、荷風先生を「着流しに前掛けで雪駄をはき、下町を愛した」?!として教養主義やハイカラに対して単に江戸趣味としてしまふのは余りにも短絡的。だいいち荷風先生をば単に……そのちぐはぐな着合せのどこが粋な江戸趣味か、かなり滑稽なだけ。
▼この一週間ほどでいくつか論説読み「???」でかなり気になるのだが、映画『ラストサムライ』香港でも上映されているが、これを観た論客が陶傑氏までをも含め、この映画から日本の近代主義だの日本人の対西洋のアイデンティティなるものにかなり言及していること。たかだか米国の娯楽作品であり、フィクションであり、余には「どうでもいい」ハリウッド映画の一本。例えば『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』を観て中国人の霊魂感覚も問わぬし『新撰組!』観て幕末の若者の心理を理解せぬのと同様のはず。だが何故『ラストサムライ』かといへば、赦せぬのであろう。同じ西洋映画でも『ラストエンペラー』では崇高さが全く描かれず単に前近代として処理され、それに対してサムライをば崇高な理念的に描く姿勢も含め。余は個人的に全く興味もないが、「まさか」と思う書き手がたかだかあの映画で何かを語ろうとするところに無意識のナショナリズムの怖さ感じざるを得ず。
▼仙台の畏友N君より報せあり仙台一高の校歌も二番に「赤き真心ささげもち御国の為に尽くすべし」といふ歌詞あり「甘きあんころ桜餅、御国のために食う柚餅子(ゆべし)」と嗤って歌った、と。もう今となるとその個所以外校歌の歌詞覚えておらぬ、とN君。余も実は「ともに励まむ国のため」以外全く覚えておらず。
▼築地H君より『桃尻娘』の榊原レナちゃん、フランス革命の「自由・平等・連帯」の尺度で見ればレナちゃん「自由」は最大限追求し「平等」に関しては「結果の平等」ではないが「機会の平等」はそれなりに尊重=公正。公正でないオトナ社会に憤りぶつけるのがレナちゃん。だが、やっぱり、最後の「連帯」決定的に欠け、つまり「連帯」抜きの「自由・平等」とはフランス革命ではなくまさにアメリカの精神か。当時はマドンナブームとか若い女が市議に、というと社会党生活者ネットか、という時代。だが今考えれば間違いなく保守系。都市の新自由主義が田舎の草の根保守に担がれるは最近の最悪の構図、とH君。ひょっとするとピンクのスーツ着て「私たち女性の力で土屋さんを国政に!」とか。レナちゃんが「ダメにならざるをえない80年代」の象徴。橋本治先生は八十年代的な「自由の謳歌」の末路を予言? 
▼築地H君も三月の歌舞伎座昼の部はかなり期待。今後の段四郎がポスト高島屋(左団次)でいい役つくことに期待。昼の部で。仁木弾正が高麗屋でなく松島屋であればベストだがH君曰く高麗屋でも「床下」なら台詞も少なく少なくとも「山本周五郎先生の『樅の木』を改めて精読し、仁木弾正という男の人間像を自分なりに造形してみた」などといふこともあり得ぬのでは?と。だが台詞がないぶん表情とかで肉薄される可能性もあり(笑)。いっそ三階なら花道の仁木見なくて済む、か。