富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月二十七日(火)曇。寒さ続く。昨年末よりの大きな仕事一つ一先ず片づく。晩に上海にて復旦大学に通ふO君旧正月の休みで香港に戻り旧知のS女史とFCCにて晩餐。インド料理食しスコッチ「真っ赤爛」。一人FCC地下のジャズクラブにてジャズ演奏聴きジャックダニエル一飲。講談社現代新書原武史著『鉄道ひとつばなし』読む。傑作。世田谷久が原のT君に勧められし秋庭俊『帝都東京・隠された地下網の秘密』にも続く内容。原氏は明治学院大の助教授。単なる鉄道話に終わらず日本の鉄道を天皇制と結びつけ語る。明治における天皇制なるものの創設と鉄道網整備は密接に結びつき、殊に天皇行幸が鉄道によって做され天皇行幸の緻密な時間設定が「地方が新しい時間を体験する大掛かりな機会」となったこと。明治帝初めて鉄道にお乗りになるはなんと新橋横浜の鉄道開業に先立つ明治五年陰暦七月のこと。また「鉄道とジェンダー」にも話は及び、鉄道は専ら国家的価値の体現であり、軍事的色彩を帯び、まさに明治的なる男性世界。なぜに鉄道ファンは男ばかりなのか、といふ素朴な疑問もここに至る。更に国有鉄道に対して私鉄の雄は小林一三の阪急だが阪急の独自性は国家的・軍事的なる鉄道に対して、臣民の生活に立脚した点であり女性といふ乗客に対する見直し、それが宝塚少女歌劇に至る。更に天皇制で見つめてゆけば、東京駅の建物こそ大正帝といふ病弱な天皇に明治帝と同じ威厳をば保つ装置であることは、東京駅開業が大正帝の京都で挙行される即位の大礼に合わせられたこと(実際には昭憲皇太后死去で大礼一年延期され東京駅は先に開業)。またその「ハレ」の東京駅に対して天皇専用の原宿宮廷駅は葉山御用邸に休養に向かふ大正帝が1926年に初めて利用するが、ご病弱なる帝ゆへ出入り口とホームの間の階段なくすなど配慮されたもの。この原宿宮廷駅はつまり大正帝の身体人々の視線から遮断するための「ケ」の空間として設けられる。大正帝は葉山ご滞在のまま崩御され二度とこの駅にはお戻りにならず。更に帝は多摩陵に埋葬され、原宿駅昭和天皇がこの多摩陵をば参拝するための駅へと変質してゆく。つまり中央線は(従来は萬世橋駅が始発……富柏村注)東京駅の建設により起点(東京駅)=天皇の「生」=顕明界と終点(多摩陵)=同じく「死」=幽冥界といふように天皇に深く関わり、原氏は「なぜ中央線で他のJRや私鉄に比べて飛び込み自殺が異様なほど多いのか」といふ原因すら大胆にもこの中央線の顕明・幽冥に結びつける。この中央線の界隈には物語多く、更に原氏は西武新宿線の東村山よりの支線、狭山公園駅には1941年に国民精神総動員運動に尽力せし修養団が「皇民道場」開設し、これが戦後に西部に買収され西武園ゆうえんちとなった経緯もあり。また京王線も、府中にて大国魂神社の参道横切るといふ常識外があるのも、京王の新宿追分〜府中線と、京王の子会社玉南鉄道の府中〜東八王子線の二線が、それぞれの府中駅の間にこの神社あり聖域として二線をつなぐ駅舎、敷設出来ずにいた事実。だがなぜそれが許されたかといへば京王が北野から多摩御陵前までの御陵線の敷設免許をば1927年に取得し「帝都」化進む東京において先帝の御陵参拝の臣民運輸といふ名目をば獲得し、これが大国魂神社の参道すら横切る敷設を許すことになり、つまり京王は「「天皇」といふ究極の切り札使い参道横断の正当性」を得たといふこと。独逸に目を転じればヒトラーが高速道路網の整備ばかりか鉄道整備も熱心にて「総統特別専用列車」の「アメリカ号」!にてベルリンから前線へと向かい巴里にもこの列車で入城。そのかげでユダヤ人をば搭せた貨物列車が欧州各地より強制収容所へと向かふ。逸話尽きぬがこの他、朝鮮、満州の鉄道話、またなぜ茨城が橘孝三郎農本主義井上日召に見られる極右テロの輩多く出したかも、原氏の視点から見れば、茨城のみ東京を結ぶ私鉄がなく、常磐線といふ国有鉄道にのみ依存し、しかも水戸までの電化は昭和36年と遅れ、「電化という、東京を中心とする文明の恩恵が及ばない」!ことに茨城の後進性をば見出す。また、鉄道といへば宮脇俊三氏だが、宮脇氏の著作から、宮脇氏が終戦の日天皇玉音放送米坂線の今泉の駅前で拝聴した時、この日でも列車が着実に運行されていたことを取上げる。余が先日の日剰に旧制学校校歌のことで述べたことに関るが、旧制高校の校歌と同様に1945年の8月に何もかわることなく戦前と戦後を通して鉄道走っていたといふこと。何も変わっておらず、遮断もされておらぬ、これも事実。更に更に横須賀線は、葉山御用邸に近い逗子、軍港にて鎮守府の横須賀と帝都結ぶ路線であり、古都鎌倉もあり、天皇や皇族、高級軍人、文化人や財閥らの利用多く、それゆへ東海道線より整備著しく、二等ばかりか三等車両さへ2ドア車が用意され車内に便所設けたほど。一等車も当然利用客多くそれゆへ戦後もこの線のみ普通列車グリーン車それも二両も連結される。だが横須賀線の威厳も原氏にしてみれば東京駅地下への乗り入れにて、横須賀線とは究極の田舎路線である総武線成田線と直通運転となり、更には横須賀線が東京駅起点に非らぬ湘南新宿ライン開通により(これはT君には将来、便利?)東北の小金井や宇都宮とすら結ばれてはもはや横須賀線アイデンティティ崩壊。面白き話は尽きず。
▼三月の歌舞伎座演目につき古典劇評論の村上湛君より余の期待些か「甘い」とご指摘あり。先代萩政岡に音羽屋といふ真女形にあらぬ加役がそれに当たり而も芝翫栄御前にまわるはこれこそ松島屋なりが加役にて勤むべき役と村上君。八汐の段四郎初役については猿之助の政岡相手に勤めた人で故人延若の八汐の型(懐かしい限り)即ち「千松殺しの件にて突つ込んだる懷劍をば筥迫にてトントン打ち徐に延べ鏡取り出だして政岡の顏色窺ふアクドき上方の型」をば見せぬものかとこそ期待もすれ逆に勘三郎張りにドッシリ勤めては」の危惧もあり。村上君曰く今次先代萩のうち見るべきは「竹の間にて大役の沖ノ井にて時藏初役の取り捌きの腕前」と「床下」での富十郎の男之助の形の二つ。芝翫の藤娘について余が「見ておくべき」と書いたことに指摘も受けるがこれは神谷町も老齢ゆへ「故人梅幸のドスコイぶり」(笑)同様に「見ておくべき」かと察した次第。三月は「結局」……この「結局」がつらいところなれど(つまり他はなし)京屋の梅川、それも「冷氣深々雪の香さへ漂ひし歌右衞門には一籌を輸すれども」当世にてはこれこそ「見ておくべき」と村上君。