富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

小谷野淳『江藤淳と大江健三郎』

農暦十二月廿八日。曇。咳も鼻水もだいぶ治つたのに悪寒だけ残る。如何せん体力がない。土曜なのを幸ひに毛布に包まりマフラーして在宅。昨晩から小谷野淳『江藤淳大江健三郎』(筑摩書房)読む。

江藤淳と大江健三郎 (ちくま文庫)

江藤淳と大江健三郎 (ちくま文庫)

 

二人の伝記を一つの著作でといふ趣向は面白い。江藤淳といふ故人と未だ健在の大江健三郎を扱ふアンバランス。東京の大久保百人町生まれの地位ある家庭の出(江藤淳の父方の従姉妹が小和田恆に嫁ぎ、その娘が皇太子妃・雅子)と愛媛の山間の村落出。いずれも名の知れた文芸家だが右翼と左翼で、江藤は評論家として活躍もしたが方や大江はノーベル文学賞で日本を代表する作家である。江藤淳については先日、久が原T君に『三田文學』の最新号いたゞき、そこで石原慎太郎が江藤について語る対談がありT君が江藤がいかに俗物かといふ話をされてゐたが、この小谷野の伝記も嫌と言ふほど江藤の俗人ぶりを顕にする。大江は(アタシも同感だが)初期の作品の完成度の高さに対して、その後の低迷、作品も面白みに欠けると。江藤は若い頃は左傾してゐたが安保闘争から左翼運動の暴力化のなかで転向し保守に転向したが信条が疑はれるほどに権力の側に媚を売り政府の諮問機関の役職など多く務めることで地位を得る方に走り大江は左翼として一貫こそしてゐるものゝ小谷野は大江の文学作品のレベルの高さに対して政治思想は護憲反戦反核ばかりで凡庸と切り捨てる。アタシが大江健三郎を最初に読んだのは高校生の時に新潮文庫『性的人間』で、同題作や「セブンティーン」をまさに、その主人公の同じ年。共感どころか性的興奮まで同時代性を感じたもの。続けて『万延元年のフットボール』も読んでみたが「なんだかよくわからない」。江藤淳は名前は知つてゐたが本屋で小林秀雄本居宣長』を手に取つてみてみたが「文芸評論って何?」と思つた程度だつたので本屋の書架に小林秀雄と並んでゐた江藤淳は「その亜流か」程度の印象。田中康夫の連載日記で『なんとなくクリスタル』を褒める文芸評論家なんだ、と知つた程度で、妻を亡くした後の自殺(先述の『三田文學』で石原慎太郎が江藤のプライベートなことだけど……と語る江藤淳が家政婦の戻りを待てず死んだ下りはこの本にもあり)で慌てゝ『妻と私』を『幼年時代』と合はせ読んだが随分と(恐らく本人の本心以上に)センチメンタルを売る人だと思つた。俗物の文芸評論家と崇高さばかりが賞賛されるノーベル文学賞作家、アタシにとつてはそればかり。それにしても小谷野さんの、この本に出てくる二人のエピソードは面白い。大江健三郎が朝起きてくると次男の作文がテーブルの上にあり一読すると手直ししたくなり添削して感想まで書いたら、実はそれは教科書に出てゐる文章をそのまゝ原稿用紙にきれいに書く宿題で、湯川秀樹の『鎖国してはならない』であつたといふ話には笑つた。この文芸家たちの論争は文学から政治まで数多いが(もう食傷気味ですらあるが)大江に対する本多勝一の難詰なんて、ずつと忘れてゐたが思ひ出してみても忘れられるほどの難癖であつた。いかに無駄なことに時間と精神が消耗され本来の物語や評論の真髄たるべきものが失せてゆくのか。なるほど、この著書の副題である「戦後日本の政治と文学」は、この二人を対比させることでよくわかる。著者の、この二人の巨人に対するルサンチマンのやうな、徹底的に分析してみせようといふ執念のやうなものも含め。

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香港でフォートレスヒルで取り壊し寸前だつた映画館の建物、ファザードにあつた陳腐な巨大広告看板外されると内側には、この映画館建立当時の見事なテラコッタの壁画現れ、この娯楽施設がペニンスラホテルと同じ建築家によるもので戦後の文化施設建築として歴史的にもいかに重要かと再認識されての原型活かしての再開発はどうなることか。