富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

橋本治〈ボクの四谷怪談〉

農暦十二月廿七日。薄曇。農暦も週明け月曜が大晦。明日からの周末で(大晦は一応は平日だが)そのまゝ春節に突入のため今日の陋巷は何かと慌たゞしい。アタシ自身は節句気分のない人間なので新暦の正月も春節もあまり関係ない。咳は少し和んだが鼻汁は処方薬で緩和されてゐるものゝ鼻腔が過敏。マスクは咳で病原菌を他人に感染らせないためだが鼻腔の過敏にもマスクがこんなにいゝとは。早晩に帰宅。

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夕餉の前に食卓に白菜の浅漬けあり、これで菊正宗を一盡。何とも至福。

▼三度で止めるつもりだつたが橋本治について。劇評家の畏友・村上湛君が書いてゐる2012年のシアターコクーンで上演された橋本治原作、蜷川幸雄演出の騒音歌舞伎〈ボクの四谷怪談〉の劇評。

http://www.murakamitatau.com/hihyo/2012/09/2012919.html

この橋本作品は「この世のものならず相好の崩れたお岩は非在の人物であり、彼女は伊右衛門の自意識の産物」といふ、この戯曲は「伊右衛門の自分探し」で「これはもう救いようもなく陳腐」。高校演劇でしか通用しないオチだらうと村上君。しかし橋本治にとつて、この「伊右衛門の自分探し」は作者にとって「とりあえずの落としどころ」に過ぎない、とする。

そんな「意味」などはじめから設定していない、真面目に解読されてもこちらは困る、ということなのだろう。
プログラムに掲載された橋本治の文章は「知性なんかないさ」と題されたもの。「この作品の中に『罪悪感』というものはありません。なにが起きても、『いいじゃん、別に』です。こんなものをやらされる役者さんは大変なんだろうなと思うのですが、勢いだけでこんなものを書いてしまった作者は、そこら辺、『ま、いいか』ととぼけます。それでも『いいじゃん、別に』だから、しょうがないです」
付き合わされる観客はいいツラの皮、である。よく言えば、「踊らにゃソン」ということ。もちろん、ここで橋本の言う「知性」「罪悪感」は、「テーマ」「意味」と読み替え可能だ。

この「意味なんかない」物語を蜷川幸雄がどう演出したのか、そして役者がどう演じたのか、はこの村上君の見事な劇評を読んでいたゞければ。その中で村上君が、この伊左衛門をギラついてゐたころの三上博史が演じたら、お岩が中村小山三だつたら、といふところは、この劇評をバスの中で読んでゐて思はず吹いてしまつた。

台湾でも進むシャッター商店街化。これに対して空き店舗税なるものを設け空店舗になつてゐる物件からは不動産税を徴収。家賃を下げてテナントを入れなければならない。これは結構いゝアイディア。