富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

150万ヒット

fookpaktsuen2018-05-12

農暦三月廿七日。気がついたら、いつの間にかこの日剩が150万ヒット超へてゐた。分析を見るとこんな拙い記述を毎日続けて読んでゐたゞいてゐる方が70〜80人をり月に一度はご覧になる方だと千名近い。一日で最も閲覧者が多いのは午前9時前後で「朝、出勤はしたものゝ仕事するエンジンかゝらず」でネットご覧の方が多いか。それにしても2000年の2月末から毎日一日も欠かさず日記綴り上網してゐるアタシも暇人だが、それでもこれだけ人口に膾炙せず、かといつて執拗な晋三批判でも炎上もなく、いかに陰翳で細々も亦た良し。「旧かなだから読みづらい」といふ声聞くこともあるが、これは丸谷先生気取りで。本日晴天の土曜日。相変はらず官邸で周末の残務整理。写真の切手は香港消防處一百五十周年記念。香港鐡路服務百周年の記念切手(2010年)は当時HK$5は使ふ機会なしと思つてゐたが8年後に日本への郵便料金がHK$4.9で使へるやうにならうとは。昨夕散髪で理髪I師に「何だか顔が疲れてゐるというか、老けて見える」といはれたが今日の出入りの内装業者O氏に同じこといはれる。本当なら天気もいゝし午後はパーッとと昼酒にでも行きたいが体力なし。午後遅く香港大学。図書館で入館証の更新手続き。受付でこの担当は一人で忙しさうだが隣に座つてゐる職員は担当は違ふのだらうが何も手伝はわいどころか手持無沙汰にふてぶてしい表情で隣の作業眺めてゐるだけで受付の列に並んでゐるアタシの「何か手伝へよ」ビームに気付いたのか、さうしたら席を立つてどこかに消えたからお見事。大学の美術博物館へ。家人と待合せ20世紀のルポルタージュ写真家の先駆たるWalter Bosshard (1892-1975)の1930年代の中国で撮影された写真とフィルムの展示を見る。戦前の中国から西蔵の社会風俗、市街、日本軍による侵略の様子が生々しい。1939年の武漢(漢口)陥落の当時の写真で今更ながら当時はまだ米英に対しての戦争を日本はしかけてゐないから漢口でも撮影取材できたのだな、と。たゞ正確にはWalter Bosshardはスイス人なので更に立場は違ふかもしれぬが。夕方、香港大に来たら、の帰途で光記に飰す。18時の口開けで20分もすれば陋巷の常客で盛況。この食肆も物価高で料理の値段はどれも日本円換算なら1,000円以上。日本のほうがずっと安くなつてしまつた。こゝから973系統のバス(赤柱⇔尖沙咀)に乗ると西海底隧道にダイレクトに入り、あつといふ間に尖沙咀。一昨日、尖沙咀の酒場に冷房対策のジャケット忘れたのを受け取り。地下鉄で帰宅。

▼香港に根付いてゐる日系ビジネスの一つに白洋舎あり。1965年の開業(九龍界限街29-41號地下)。白洋舎で海外に支店があるのは確か香港とハワイだけ。創業者の五十嵐健治が敬虔なクリスチャンで社会奉仕につながるやうなビジネスとして日本で初めてドライクリーニング始め、海外進出もその クリスチャンネットワークで香港は陳曾熙(1923-1986年)の恒隆集団との深い関係ありと合作、それゆゑ香港は恒隆白洋舎(こちら)。香港での開業時の記念写真、後列右に藤田一郎あり。やはり香港のキリスト教人脈で、これを研究したらさぞや面白いはず。恒隆といへば松坂屋(1975〜1998)も銅鑼湾で恒隆中心にあつたが、これも陳曾熙と松坂屋の伊藤鈴三郎との連携……と考え始めると松坂屋の建物を一手に受注してゐたのが竹中組の藤右衛門で竹中工務店の香港進出も、その流れか……とまで(想像の域を脱せず)。銅鑼湾といえば大丸で、中興の祖といえる里見純吉(1878〜1952年)という熱心なクリスチャンの社長ゐたが香港大丸の開業が1960年だと思ふと香港進出が里見からの遺言なのか……これはアタシのもはや妄想の域。

FT周末版のマレーシア政変についての記事で豪州の大学でマレーシア政治研究する先生のコメント。御意。アジア型開発独裁シンガポール李光耀と並んで成功したマハティール博士にとつて晩節汚した最大の誤謬は愛弟子アンワル君をホモ罪にて失脚させ牢屋にぶち込んだことでマハティールが後継としたナジブのあまりのひどさを詰るにも詰りきれずマハティール自身が野党に立ち位置をとりの総選挙で政権奪取。何もこれも自身の長期政権末期でのアンワル追放に対する贖罪。まぁそれができただけ今回齢九十余で再び首相となるのだから「晩節を汚した」はずが今が晩節か。それにしても政治の中で見える人間のカルマ。