富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

大東電報局

fookpaktsuen2014-06-20

農暦五月廿三日。朝、雷、大雨。蹴球世杯日本対希臘戦。前半終了の0:0を香港電台の速報ニュースは「互交白卷」と、いゝねぇ漢語表現の妙。日本負けるのはアタシでも嬉しくないが下手に日本が強いと、またヘンな方への勘違ひも怖い。いまアタシたちに出来る晋三への抵抗は政治ではなく景気悪化、W杯での日本不調で「強い日本」への勢ひを止めることくらいなのかしら。日本が8強とか4強なんてことになると晋三の「強い日本」の追ひ風になるから。今日で陋宅の電話が止まる。1992年だかに中文大學の教職員宿舎で間借りしてゐたときに当時の香港テレコムで口座開設して以来の電話番号で20年以上になるが今では陋宅で電話がかかつて来ることなど一ヶ月に一度あるかないか。電話料金かなり安いとはいへ、かなり勿体ないのでお終ひ。あたしが知るだけでも香港の電話会社の変遷かなりやゝこしく*1とくに20世紀末からITバブルの頃は電話料金の支払いで小切手の宛先がまぁ変はること、変はること。昔はIDDで一ヶ月に1000ドル単位で払ふこともあつたが。電話会社の変遷でやはり懐かしいのは大東電報局。Cable & Wirelessの香港支店のやうなもので尖沙咀のMiddle RdをNathan Rdからシェラトンホテルとアンバサダーホテル(已結業)の角から入ると重慶マンションに繋がる雑居ビルの先、左側に大東電報局あり。80年代に中国へのバックパッカー旅行から香港に戻ると重慶マンションに下榻して、この大東電報局に往き日本の実家の電話番号を申し込み暫し待つと指定のブースの番号呼ばれ、そこから親に「無事、大陸から出て参りました」といふか金の無心も懐かしい。あたしの記憶では1991にはこゝから間違ひなく当時、東京にゐたZ嬢に電話した記憶あり。あたしの誕生日で、而も中文大で大学院に受かつた吉報を知らせたのだがZ嬢はあたしの誕生日など失念(笑)。ネット繋がつた当初は通話よりダイヤル回線&モデムで電話線大活躍の時代も懐かしい。早晩に中環で用事終はり百年ぶりに不愉快な記憶だけ遺るJimmy’s Kitchenに寄る。晩の口開けだが給仕たちの佇まひの貧相さ呆れるばかり。一言「だらしない」連中ばかり。身だしなみも小汚い。水のやうなドライマティーニ。かつての、あのきび/\とした給仕たちの仕事ぶり、几帳面なバーテンダー、きりっとしたマティーニ、百合根のピクルス……が懐かしい。店の入口のドアがちゃんと閉まらずヰンダム街の喧噪ばかりか、この一体は下水の悪習もひどいので、それまでバーエリアに流れ込み不愉快甚だし。マティーニ半分ほど残しJimmy’s Kitchenを辞す。やはり、まだ尖沙咀の同店の方がマシ。自宅で晩に自分のためにDubonnetとジンのカクテル作る。

*1:香港での電話の歴史。ベルによる電話の発明登記の一年後、1877年に香港には英国を通じ電話技術伝来、1882年にOriental Telephone and Electric Co.(東方電話電力公司)創設されChina and Japan Telephone and Electric Company(中日電話電力公司)となつたが1925年にHong Kong Telephone Co., Ltd. (香港電話公司)に買収され、このHKTCが50年の専業権得て(途中、日本軍による香港佔領時期を除き)香港の電信電話業務を独占、1968年には1975年から更に20年の契約延長となるが1984年に英国のCable & Wireless(大東電報局)が買収、HKTCは子会社となりHong Kong Telecom(香港電訊)が略称。香港電訊は以降、英語名が目紛しく変はる中で中文名は香港電訊のまゝ。1995年にHKTCの独占権失効、1999年にHKTCはCable & Wireless HKT Telephone Ltd.となり、翌年、2000年に李嘉誠の次男リチャード王子の会社Pacific Century CyberWorks(PCCW)がCable & Wireless HKTを買収、PCCW-HKT Telephone Ltd.となつたが2012年からはHKT Ltd.(香港電訊)。