富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

武蔵野の府中の秋に馬奔り御幸に民も草もはしやぐ

fookpaktsuen2012-10-22

農暦九月八日。整理した本が小さなトランク一つほどになり銅鑼湾の古本写楽に持ち込む。かなり値踏み上手の主人(香港人)は山上たつひこの『喜劇新思想大系』上下巻はかなり丁寧に確かめてゐたがアトは二束三文で、でも結果一束HK$150也。捨てるには本に惜しく引き取つて貰へるだけ有り難い。この本屋の良いところは迂生、蔵書印など押してしまつた本も値引きなく引き取るところで検書丁寧は他の古書肆や日本人倶楽部など図書貸出しの本かどうか、の確認。売り場でなく整理棚に岡崎京子『うたかたの日々』(宝島社)あり「売り物?」と尋ねると売らぬ風でもなし本を手にして奥付けなど調べ「HK$50いたゞきます」といふので商談成立。売却分との差でHK$100の収入。「うたかたの日々」はフランスの文人、ボリス=ヴィアン(1920〜1959)の物語“L'Écume des jours”(日々の泡)が原作で岡崎京子ファンには垂涎の一冊。中環に往きオリンピアグレコエジプティアン珈琲店で珈琲豆購ふと珍しく先代の女房が店番。もう八十路くらゐだが矍鑠。客に愛想売らぬところも昔と変はりなし。FCCに寄り早酒。バーの一角がやたら寒いので冷房弱めてくれ、と女給に頼んだが一向に弱まらぬので少しでも風弱き隣席に移ると件んの女給が“Are you sick?”と。確かに風邪はひいてはゐるし他の客より厚着で寒そうに見えるだらう、が“Are you sick?”と尋ねるのはアタシがバーカウンターに臥せつてでもゐれば別だが、普通に飲んでゐるのだからあまりに客に失礼で、何よりあの一角が、見たまへ、植物の鉢の葉があんなに揺れてゐるでせう、こんなにこの季節、強風で冷房かける必要などないでせう、と諭すが香港の冷房人にはそんな理屈は通じず。しかも客の多くが氷河期を欧州のツンドラで生き抜いた連中の末裔だから冷房の寒さに草臥れぬから困つたもの。でアタシが赤葡萄酒飲んでゐると途中で件んの女給がコップに冷水持つてくるので「水なんて頼んでませんよ。だいたい葡萄酒や麦酒飲んでいる客には客からチェイサーを、とでも頼まれぬかぎりコップ水をば出すべきでない」と諭すが全く理解されず。理解されぬばかりか同僚の給仕に「せっかく水を出したのに断れた」などとカウンターで話してゐるので「広東語も聞こえているで余計なことを喋るべからず」と小声で叱る。今日日バーテンダーの養成などどこのバーでも全く出来てをらず。帰宅して早速、岡崎京子『うたかたの日々』読む。なんとも感動するところあり。それにしてもこの岡崎ワールド……素敵さは言葉に言ひ表すも能はず。アタシの手許には1992年の朝日ジャーナル最終号あり岡崎京子の読み切り短編掲載あり。何気ない日常のなかでの朝ジャ休刊が描かれるが、その後、政治の低迷、基地問題原子力……と朝ジャ的な争点が社会で露骨のなるのだから。晩飯に山芋たっぷりで小麦粉少ないお好み焼き。豪州のSaint Clair EstateのUnoaked Chard 2011年を飲むが大変このお好み焼きに合つた。佐伯泰英『惜櫟荘だより』(岩波)読了。熱海にある故・岩波茂雄の惜櫟荘をば岩波家放出=再開発の手前で入手した作家・佐伯泰英がこの邸とその完全改修に纏はる話をおさめた一冊。アタシは佐伯泰英といふ作家を全く知らず、而も時代小説といふ迂生一切読まぬジャンルゆゑ、なぜこの作家が岩波茂雄のかの熱海別荘をば入手するに至るのか、しかもどれほどの意識があるのか、と知らなかつたが、この一冊を読むにつれ、この作家が七十年代といふ、まだ文学が輝いてゐた時代にスペインで堀田善衛、氷川玲二の薫陶を得、さらに田村隆一の訪欧に写真家として同行するなど若いときにかうした今から見たら大作家の世界観に触れてをり、この岩波別荘の改修話に、その当時の作家大先生らの思ひ出話が重層的に何度も挿入されるから、それを読むにつれ、あゝこの人はこの別荘を所有するに値するだけの文人世界の継承人なのだ、と思はされてくる。それにしてもこの別荘の設計をした吉田五十八の弟子にあたる板垣元彬、昭和四十六年にこの改築を担つた水澤工務店と、そのときのスタッフだつた高野老人がまだこの工務店の顧問で、さうした人たちを引き寄せ、この改修となる見事な話。久々に昭和の酒が美味かつた頃の、作家連中のやうな懐の深い話を読んだ気がする。何よりも佐伯自身が堀田善衛夫人に「佐伯、」と呼びつけにされてゐたの同様、佐伯が岩波の社長から他の作家、建築家まで敬称略の潔さがいゝ。岩波茂雄の好んだ漢詩、唐代の李群玉の
白鶴高飛不逐群 嵇康琴酒鮑昭文 此身未有棲歸處 天下人間一片雲
といふ七言絶句が素敵。

喜劇新思想大系 完全版 上巻

喜劇新思想大系 完全版 上巻

うたかたの日々

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惜櫟荘だより

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