富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-04-30

四月三十日(日)昼まで御所にて諸事。ふと或ることが契機となり堂本正樹『三島由紀夫の演劇』読み始める。久が原のT君から頂いた初版本(出版は劇書房)。昼に中環の楽香園珈琲室に寄ろうと思ったら休みで隣家の黄枝記に雲呑麺食す。午後早くジムで筋力運動と有酸素運動を各一時間たっぷり。閑散としたFCCのバーでハイボール一杯にポーランドショパンという名の冷たいウオツカをトロリと一杯。堂本本読み続ける。沙田の競馬は他レースは見もせずに本日唯一のクラス1(芝1200m)で見習いの徐君禮君騎乗の帝聖名駒(Regency Horse)が14倍で昨日一点買いしておいたのが見事一着。でもやっぱりみんな見ているわけで6.4倍まで下がっていたのも当然か。競馬といえば天皇賞ディープインパクト、中継で見たが思いっきり出走で出遅れ、であの勝ちっぷりに驚くばかり。午後遅く真っ青な空。大気汚染がひどくないのは中国も大型連休で工場休業の影響なのだろうか。快晴。帰宅途中に銅鑼湾そごうの旭屋書店でアサヒカメラ5月号受領。ふと新潮文庫三島由紀夫佐渡公爵夫人・わが友ヒットラー』見つけ、堂本『三島の演劇』にも何ヶ所も引用あり、もう読んでから四半世紀以上過ぎているわけで凡そ筋すら朧げで改めて入手。帰宅。読書&酒飲み続けてながらピンクフロイドなど聞いていると夕暮れに西の空に見事な下弦の月に見惚れる。新西蘭のオイスターベイのシャルドネなど飲みながら菠薐草のパイや昨日のデリのパテ(コンビーフだと思ったらレバーのパテであった)、アスパラ、葱などいろいろオーブン料理。NHKスペシャルで「煙とカネと沈む島」という地球温暖化テーマの番組見る。石炭に曇る重慶二酸化炭素排出量の権利売買に臨む日本の商社、この売買で利ザヤ稼ぐ紐育のディーラー、温暖化で家が浸水するツバル。ツバルの老人がもっとも賢者に見える。『三島由紀夫の演劇』読了。
生き永らえるという事と盲目という事は神秘的な関係にあり、文芸の発生この方、この関係は現代に至るまで執念深く継続している。 とか
女とは今や、男の芸術を奪い去るしたたかな生き物であり、容赦しない現実である。 なんて他になんて表現のしようもない一文がいくつも。三島『近代能楽集』のうち「弱法師」に関する文章が圧巻。
▼七月の歌舞伎座といえば猿之助率いる沢瀉屋一門であったが猿之助丈の復帰も能わず、で今年七月は大和屋の監修、主演で泉鏡花オンパレードでまさに納涼か。昼の部の「夜叉ヶ池」は春猿をば抜擢、「海神別荘」が大和屋で相手は海老蔵。夜の部は「山吹」にご存知「天守物語」で富姫は当然大和屋で図書之助は海老蔵玉三郎海老蔵相手に沢瀉屋一門率いて、という数年前には考えられぬ木挽町の七月。京屋が足穂の世界の人となりつつあり大和屋まさに君臨。五月には世田谷で鼓童と競艶の「アマテラス」。すごすぎ。還暦にはぜひ鬼太鼓座と一緒に。
▼ところで久が原のT君と海野弘先生の話となり博覧強記の大変な人ではあるが文章が愛を語っても愛の喜びや悲しみに深入りせぬところが海野先生らしいところ、と感じる。T君も我もお互いが遭遇する十年近く前なのだろうが中学生の頃にアールヌーヴォー手ほどきは同じくこの方。ビックリハウスや面白半分読みながらも月刊太陽がけっこう好きで目黒のウエストでシュークリーム食すのが幸せ、な中学生であった。
▼昨日綴った都立高の元校長先生の発言。一つ気になったのは「挙手採決は学校の場に馴染まない」という主張。これは何通りかの意味がある、と市民運動家である武蔵野のD君より教示あり。「多数決でホントにいいのか?」ということ。多数決が民主的なようでいて「数が多い方の意見にしたがう」ということぢたいの教育的意義。寧ろ少数者には多数決でも奪えない権利がある、ということの方が重要、と。御意。例えば労組でスト権をたてて会社の最終判断を受けたあとスト突入が収束かをきめるとき挙手採択せず。全員の意見表明をまわして、まず討論。もちろんここで一人一人が「収束すべき」とか「ストうつべし」とか意見述べるがそれぞれに理由を述べるので全体の意見は何パターンかに収斂される。大勢が収束となっても何人かはなお納得せず。さらに議論を重ねるなかで「収束に反対する意見に対して、どのように納得させることができるか」という点に論点が集約され、最後は「〜という点を留保するなら、収束に賛成」とか「〜という少数意見を明記する条件で、賛成」とかいうふうに「全員一致」の結論にもっていく、と。全員一致という一党独裁国家が連想されかねないが実際には「民主主義的な運用」というのも有り得る。それには「組織内の意見対立が先鋭化するのを防ぐ」という目的があり、現実には「組織内に意見の対立がある」ことを前提として、その上で組織の統一を守るための手法でもあり。で、学校という場でも本来なら「挙手採決」はしないで済むならそれに越したことなし。教員同士に意見の違いがあることはいいとしても、それによって対立したり人間関係がうまくいかなくなるのは望しからず。勿論、日の丸君が代などでは最終的に受入れるか拒否か、で拮抗すれば「挙手採決」とならざるを得ぬわけで、そもそもこういった政治的issueを学校教育に持ち込む方が拙いのだが。で、この校長先生の「挙手採決はなじまない」がどういう意味での発言なのか、正確にはよくわからぬ。少数意見の尊重云々に言及しておらぬので多少、否定的にもとったのだが、実はこの校長先生、東京都の教員処分命令とその取消し求める訴えについて今年に入り開かれた都人事委審理での校長尋問で東京都の教育の異常ぶりに言及し処分差し止め求める教員から拍手が起きた、という。その報道を見てはおらぬが、そういった経緯あった上での今回の朝日新聞での発言。まさに良心の呵責に耐えかねて、だろか。東京都であるから退職したとはいえ元学校長のこの発言では年金取消しくらいの処分にされたり、とか。
▼朝日が一面トップで「靖国」日米にも影、米の歴史観・アジア戦略と対立、と東京裁判六十周年特集の記事。「靖国」は対中韓だけでなく対米にも凝りあり、と中韓と対峙する対局としての親米派に対して「ほらほら、やっぱり靖国は面倒でしょう」と警笛のつもりなのだろうが「靖国」の問題解決に中韓であれ、米国であれ外圧をば用いなければならぬこの意気地の無さ。確かに米国にとって日本の親米派が実は靖国に通じる、米国に戦い挑み真珠湾奇襲の人たちで、親米などとしては見せるが内心は小狡いと思われているのは明らか。
▼羅馬天主教で香港の歯に衣着せぬ陳日君枢機卿となりバチカンの対中関係どうなるか興味深きところ中国が中国天主教愛国会副主席(全人代でもキリスト教界代表)の神父(馬英林)をバチカンの反対押しきって勝手に昆明教区の主教に任命。バチカンは「教会への介入」と反撥。中共チベット教といいキリスト教といい宗教への介入お盛ん。今回の勝手な任命、なにが興味深いか、といえば推測ではあるが教区の主教勝手に任命することなど中共にとっては日常茶飯事のはず。なにせ中国国内は公式には中国天主教愛国会の傘下。それゆゑバチカンもいちいち中国政府の勝手な措置に反撥しておらぬのでは? しかも今回は場所が昆明雲南省)。愛国会副主席で全人代代表というほどの中共カソリックの要人をばこの雲南省の辺鄙なる地に遣るのはまるで左遷だが中国のカソリックにとって四川省成都)、重慶直轄市)、雲南省昆明)、広西チワン族自治区(南寧)は伝統的に伴天連多き土地。北京から遠きこともあり比較的、愛国会の傘下にならぬ風土。その昆明に対しての今回の介入。60年代後半の組合自治NHK徳島放送局(掃除婦のオバサンまで番組制作に関わったという)に神南から親方組合の幹部乗り込むようなもの。だからこそ、のバチカンの反撥。……以上推論だが恐らく間違いあるまい。

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