富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月三日(日)快晴。天気予報は何週間ぶりかでギンギラのお日様印。パーカー山の峠まで登り大潭のダム周辺を15kmほど快調に走り島南岸の海岸に至る。昨日の続きでフーコーの『自己のテクノロジー』読む。炎天下は陽が肌を灼くが木陰は心地よし。フーコー先生も地中海の海岸で陽光楽しみながらニーチェを読んだとか。地中海と此処はとても異なるがまぁ佳しとして一気に読了。Epimeleia Heautou(自己への配慮)は「自分自身に関心をもつこと」で、これは「自分自身を認識すること」よりずつと大切なのだが古典の時代は「自己への配慮」が自己認識より優先されていたのに或る時代から自己認識ばかりとなり自己への配慮に欠け自己認識ばかりか自己を一つの国家の一部として認識するほどの「誤解」に至る。これはブッシュから自民党保守のオトーサンたちから香港の民建聯まで同じか。でフーコーが強調するのは「個人を国家のための意味ある構成要素にするために、いかなる種類の政治技術が、どのような統治テクノロジーが国家の方針という一般的枠組のなかで活動し始め、用いられ、発展してきたのか」を明らかにすること。炎天下でちよつと日射病気分で考えたことは、フーコーは国家にとって国民の幸福はもともとは目標であつたのに、それが国民が幸福であることが条件となつていることを指摘しているが、もつと詰めて考えれば、自己が自己への配慮を忘れると、今度は国家が国民への配慮を始めたこと。国家装置の維持のために国民が必要なわけで(本来は逆だつたのだが)その国民を維持するために前述のフーコーの指摘にある国民の幸福が条件・手段となつたわけで、私なりに読めば、これは「国家による国民への配慮」(これが近代国家で福祉事業になつたことは言うまでもない)で、この国民への配慮が始まつたことで「自己はもはや自己への配慮といふ本来もつとも個々に大切であつた認識が欠けた」こと。それともう一つ。フーコーが記述の重要性についても言及しているのだが、記述の重要性としてはこうした日剰の記述というのも重要かも。時々こうして日剰綴ることに、この時間があればもつと他にいろいろできるのでは?とも思うのだが記述は重要であるし殊に老いた身にとつて忘却ほど恐ろしいものはないわけで記述続けること。午後三時前にこの本読了し麦酒一缶かーっと飲みスタンレイ経由で帰途につく。雲ひとつない青空。青空。ジムに一浴し帰宅。枝豆と麦酒。大河ドラマ義経」おそらく初めてオンタイムで観る。香港時間午後七時で外はまだかなり明るい。筋は大河ドラマらしいが時代考証のいい加減さはここまで赦していいのだろうか。室町後期まで待たねばならぬような見事な鋳造の刀、女武者、高嶋屋演じる吉次の家の江戸の町屋風などなど。頼朝が源氏の頭領として持ち上げられる様もフーコー読んだ晩では考えることも少なからず。北条など板東の武士が平家方から頼朝に「寝返った」のはたんに政治的策略に非ず、義仲追討の頃にはもはや平家方であつた記憶すら不鮮明になつていても可笑しくない筈。尖沙咀のキムバリー街の韓国街で仕入れた牛舌、骨付きカルビと牛ロースを焼肉。焼き野菜も沢山。真露。NHKそのまま観ていたら「遠くにありてにっぽん人」なる番組で伊太利亜瑞西で著名のミラノ在住の粘土細工アニメ作家・湯崎夫沙子を取り上げる。余も香港映画祭でアニメ作品「冬の日」を見ており湯崎女史もそれに参加。でこの人のミラノでの活動を取り上げる時に当然のようにこの人が日本人であることがどうのこうの、は全くない。ただ一人の映像作家として見事な仕事ぶりがあるだけ。傑出した映像作家であるが彼女がミラノに留学した数十年前に知り合ったステイ先の家族の娘がずっと同居までして彼女の制作活動を支えるプライベートなところまで映すが日本人の感情表現や手先の技巧の細かさなども一時間の番組で少しも表されず。でも番組のタイトルは「遠くにありてにっぽん人」である。確かに文字通り「日本人がこんな遠くでこんなことしてます」だけに徹しているとしたらシュールですらある。

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