富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月二十五日(火)曇。諸般雑務に忙殺された一日。メールだけで10数本返事しなければと思いつつ保 存フォルダにたまっていたもの含め60通くらい。晩になり偏頭痛ひどく手許にあったサントリー山崎をくーっと飲むと忽ち頭痛も和らぐのが困ったもの。帰宅 して牛丼食す。たまった新聞雑誌のたぐい多読。
北京大学、精華大学の教職員食堂で連続爆弾。大学といふのは百貨店に次ぎもはや歴史的使命終わっているの かもしれない。とくに文科系、廃止しても世のなか困らないであろう。講義を聴きに集わなければ知が得られなかった時代だからこそ必要だった装置だとした ら、本来グーテンベルグ印刷機がうまれた時に終わっていた?、インターネットの時代になったらなおさら。知識階級の否定、大学を破綻させようとした文化 大革命とはいったい何だったのか、と一考。少なくとも税金でとくに研究成果もなければ非常勤講師と何らかわらない講義指導しかできぬ教員を養ってあげる必 要はあるまい。
▼日銀にて「プリンス」の福井某が総裁に選ばれたことにSouth China Morning Postは本日の社説にて小泉三世が福井某を選任したことで日本にどれだけ永く待たれていたであろうか、その経済復興がまた先送りになるだろう、と酷評。 福井某が接待汚職で副総裁辞職余儀なくされた過去あり、大蔵官僚武藤某の副総裁人事といい結局は財界官僚の思い通りの人事であり実際の改革とは程遠し。社 説は "Rhetoric aside, Japan is headed for disaster unless it beats deflation soon. Behaind deflation lies its spiralling public and banking debt. A financial collapse on the part of Asia's sick giant may wake up Japan's sleeping electorate, but it will have a traumatic effect across Asia and the world. This newspaper had hoped for better from Mr. Koizumi and his team. With Japan, however, diappointment seems to have become the norm." と書かれて「しまって」いる。今回の福井総裁就任でこれだけ厳しい社説を日本の新聞が書いているか。朝日の「金融の再生に全力を」など駄文中の駄文、要約 すらできぬ文字並べ。世界のこの厳しい視線が実際に当事者たる日本がわかっていない。経済紙『信報』も「福井任命の意味は小泉が過去数ヶ月にわたりデフレ 抑制を積極的に断行できる人材を探した揚げ句で最後に最も現状維持する人材を任命を決定したこと」と手厳しい。これでまた日本の経済回復が5年は先送りさ れたか。もう救われまい。現認の速水某とてG7開催されたパリにてこれまで厳しい時期だったが今回はのG7では「金融市場は年度末が近づいているにもかか わらず、極めて落ちついている」そうで「日銀のアグレッシブな金融緩和」をその理由として挙げている(朝日)。…… 唖然、こんな感覚でこの厳しい時代の日銀総裁を5年もしてしまったのだ!、当然のことながら今回のG7イラク情勢が中心課題で毎度焦点となった日本「処 理」問題が話題にもならず。いかりや長介ぢゃないが、マジに「だめだ、こりゃ」だ。
▼12日の日剩で綴った「国語学会」の名称問題、朝日新聞によると「会員約2500名 の郵便投票は23日開票され、改称賛成が776票と有効投票(1150票)の過半数を占めた」そうで「日 本語学会」への改称が決定した、と報じている。が、一読して当然「この2500名の投票の過半数以上が無効投票って一体なんだ?」と疑問に思う。悪文。学会のサイト見たら「投 票総数1170票」つまり約2500名のうち46.8%が投票し、そのうち有効票数1150票、つまり無効票は20票に過ぎず賛成776票、反対367 票、白票7票という結果。新聞がまともに日本語使えないのだから「国語」の未来も暗雲漂う。「会員数約2500名のうち1170票の投票があり」と書くべ き。そういえば『文藝春秋』の三月 号の特集が「日本語大切」だ、確かに大切にしたいのだが、文藝春秋の野暮なところは「言葉の衰退は国家の衰退」って(笑)。これ、国語学会のディアスポラも憂いでのことか。「言葉の衰退は国家の衰退」なんて虚言も虚言、たとえば 『帝国』の訳者の一人である浜 邦彦さんが書かれている「カ リブ海英語圏の島々から作家が輩出しロンドンやニューヨークなどのメトロポリスで活動」といった現象であるとか、英文学でのイシグロカズオとか言葉が国家 に属してなどおらぬ証拠。『橋のない川』の住井すゑなんて国家権力に抵抗する手段が日本語だったのだし、だいたい<国家>なんて概念とはぜんぜん違うとこ ろで源氏物語は書かれて日本語はじゅうぶん美しかったし、国家までは至らぬが当時の政治機構が衰退する時代にこそ方丈記とかいい文学が現われたりもする。 こういう趣も知性のなき発想が文藝春秋の、荷風先生が嫌った菊池寛以来の文藝春秋の野暮さであって、またそれを読んで知識得たと勘違いする(瞞される)文化の浅ましさ。