富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月二十四日(月)晩にランニングクラブで大阪のK氏、奈良のK氏両名の送別晩餐あり六国ホテル粤 軒。ホテルのP部長より赤葡萄酒差し入れいただく。麦酒飲みしばし歓談、全員揃って晩餐始まるところで辞退、Z嬢とシティホールにて「北京謡滾」なる、自 北京來の街頭フォークシンガー・楊一と蘭州など出身とする若者六名のアコースティック・野孩子なる楽団のコンサート。楊 一は毎年冬は北京の中国美術館前で街頭ライブ続けレコオド会社数社から誘いがあっても自主盤にこだわる北京のボブ・ディランと呼ばれる歌い手。在野に徹し て民衆の声を代弁するような、まさに共産中国の誇りのような歌い手ながら当然のように歌詞には社会の非情、厳しさが歌われ最後の曲「焼白薯」では歌詞の最 後は「総有一天、汝會到天堂、就没有警察和工商」(おまえが天国に行った日にはそこには警察もビジネスもない)っ て絶唱で終わる。客から大きな拍手。続いての野孩子は「こういう音楽が聴きたかった」と聴いてみて身を乗りだし身震いするほどの衝撃。ギター2本とベー ス、ドラムにパーカッションにアコーディオンという編成で、唸るように地から溢れてきたような調べがその無国籍な演奏に乗ってゆく。一つの音楽にこんなに 夢中になったのは何年、何十年ぶりだろう……ソロになったStingコルトレーンSheila Jordan、サディスティックミカバンドといくつか頭を過るが何れも若い頃のこと、この老年に達してこのような感動を得るとは恐ろしいほどのバンド。楊 一が終わった途中休憩の時、ロビーにて彼らのCD売っていたがあまり数もなかったことを思い出し演奏終わりアンコールとなる前に会場出てCD二枚「哭語」 と上海ライブを購う。余と同じくアンコール終わってからではCD即売切れと察した客は他にも数名。アンコールは楊一との共演。コンサート跳ねれば予想通り CD売場は押すな押すなで客が取り囲み売る者が青くなるほどの盛況。素晴らしいコンサート。残念なことは客の入りは六分。香港芸術祭の他の興行のような知 名度と動員なきこともあり。それにしてもハービー=ハンコックであるとか、それどろこかローリー=アンダーソンまで!香港少年芸術友の会みたいな、若い世 代に音楽の素晴らしさを経験してもらおう、みたいな、実はコンサート客席埋めの動員材料に利用されているような、そういう組織によりガキめらが香港芸術祭 の会場の安い席に大挙するのだが、いい音楽とはいえハンコック先生が語るマイルスもコルトレーンも知らず、それどころかジャズのジャも知らぬ子どもら、ま してやローリー=アンダーソンは見ても140%理解できないのは確か、そんなものに動員するよりもよっぽどこの楊一と野孩子らの演奏聞かせるほうが子ども らにとんでもない刺激と発揚を与えられるはず、だが、それをせぬ愚鈍な主催者側。ハンコック先生のコンサートなど政府高官がずらりと並び反骨であったジャ ズは遠い昔のこと。それに比べれば首都北京からの歌い手と楽団、それも中国の民衆音楽を礎とする彼らの演奏であるのに無礼も甚だし(笑)、あまりの演奏の素晴らしさに帰宅しても興奮さめやらずCDを貪り聴く。深夜一時頃から週刊香港への一昨日の Greenpower Trailの短い記事書く。
▼楊一と野孩子らは北京の三里屯にある「河」といふライブハウスで活躍。この河が北京でかなり熱い、かつての博 多のライブハウス昭和のようなそんな存在。彼らは北京の三里屯にある「河」といふライブハウスで活躍。この河が北京でかなり熱い、かつての博多のライブハ ウス昭和のようなそんな存在。河という名称も意味深い。支那にとって文明の源流が黄河にあり、河は支那に限らず文明をもたらす象徴。また重要なことは80 年代に『河殤』という中国の民主化にとって重要な書物が出版され発禁処分となったこと。この『河殤』は支那文明がその母なる河に象徴するものを内陸性と閉 鎖性と否定的に捉え、これから海に出ていなければ将来はない、という主張をしている。このライブハウスがどの意味で河と名づけられたのかはわからず。
▼韓国大統領金大中氏退任。韓国民主化に生死かけようが南北首脳会談を実現しようがそれほどの正義の人がな ぜ息子二人が父親の威光背に贈収賄繰り広げられたのか。もし正義があり自らの身が潔いのならその愚息二人を斬る気概でもないものか。首相の息子が父の威光 背に芸人になる程度で日本はまだマシか……そういえばあの芸人息子、Where has he gone?
▼郷里で亨保九(1724)年に呉服商として創業した老舗百貨店が20日、つまり父母が香港に遊んでいた最 後の日に閉店。この百貨店より歩いて数分の処に生まれ育ち傷痍軍人が坐る正面玄関に掲げられたテレビジョン画面にて吉田茂国葬を見た記憶。此処を遊び場 として育ちマクドの開店に欣喜雀躍した頃が百貨店の最盛期。