乙巳年三月廿九日。摂氏9.2/17.6度。晴。神崎寺掃墓。ミヤギノハギすく/\と育つ。門前の鉄鎖の隙間にも小花がきれい。


晩に伯母からいたゞいた中川樓の蒲焼を頬張る。アタシはタレは余計に加へず。
顔本は覗かなくなつて久しいが “X” も演芸など情報を見てゐる分には良いが何だかワケのわからない「デマ/カルト」的盛り上がりをつい見てしまひ不愉快、不安を感じることも多く(それなら見なければ良いのだけれど)それで “X” もそろ/\終ひにしようかと思ふ今日この頃。下手な論争などないだけ画像に特化したインスタの方がまだマシだと思ふ。実際に顔本や呟板からインスタに立ち位置を移す方々、商店も多い。
(憲法)昭和100年/戦後80年「普遍を瓦解させ再構築する正義」江藤祥平:朝日新聞
朝日の読書欄の、この書評、憲法論には驚いた。
過去を記憶しない者は過ちを繰り返す運命にある*1。「新しい戦前」とも言われるいまだからこそ戦後の原点に立ち還る必要がある。
江藤祥平といふ憲法学の先生(一橋大)のこの論評はこんな真っ当な指摘から始まる。そこで昭和29年刊の尾高朝雄『国民主権と天皇制』(講談社学術文庫)を先ず挙げる。法哲学者たる尾高は「国民主権と天皇制をいかに調和させるか」といふ問ひに取り込み〈國體〉は変はつても「否定されることのない一貫した精神のつながり」が戦前と戦後の日本の間にはあるはずとしてノモス(法の理念)を唱へたのだけれど「これに強く反発したのが憲法学者の宮沢俊義である」。
宮沢は、ポツダム宣言の受諾により日本には「革命」が起きて、国民主権の国になったと考えた。これによると戦前と戦後は時間的に断絶している。
……そんな。「八月革命説*2」は実際に終戦=革命ではなくて「革命があつたといふ仮構でも導入しないかぎり戦後憲法体制の合法性を説明できない」といふことでは。戦前と戦後は連続してゐるから大日本帝国の体制を国民主権の民主国家として日本国憲法に正当性を付与するためには「革命が起きた、或いはそれと同等の政治的変換があつた」として手続き的に接合した「学説」。宮沢俊義が「ポツダム宣言の受諾により日本には「革命」が起きて国民主権の国になったと考えた」と書いてはいけません。この八月革命説により尾高と宮沢の論争では宮沢が優勢になつたが江藤先生は「戦前と戦後を連続的に見る尾高の方に分がある」とする……それが言ひたかつただけのか。
(宮沢の革命説では)戦前の日本国民の責任が有耶無耶になる。尾高は「ノモスという戦前と戦後で変わらぬ理念を想定すること」で新しく主権者となった日本国民に責任の自覚を促していた。主権者であることの意味を噛み締める上で尾高の主権論は必読である。
こゝまでも亦た真っ当な論説だらう。そこで樋口陽一先生の登場。
戦時中に全体のために個人が犠牲を強いられる共同体の姿を目の当たりにした樋口にとっては「戦後日本で個人主義をいかに確立するか」が課題であった。樋口(略)はその答えを近代フランスの憲法構造に求めている。フランス革命の意義は国民主権の成立により中間団体から力ずくで個人を解放し個人と国家の二極構造を徹底させたところにある。これを近代の典型と見る樋口からすれば未だに会社や地域といった社会的権力に個人を縛る日本社会は国民主権としては不徹底ということになる。
通常なら「待ってました!」の戦後憲法学だが江藤はこゝで樋口先生にも疑問を投げかける。
国民主権の意味を問う尾高と樋口の議論は今日でも魅力的だが限界もある。
としてそこで挙げるのが竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』(岩波現代文庫)である。
日本におけるクィア理論(異性愛的でない人たちに向けられる差別語に肯定的な意味を与えていく思考)の先駆者として知られる文学研究者の竹村は、この本の中で、異性愛主義と性差別を両輪とする「正しいセクシュアリティ」の物語が「女か男か」「同性愛か異性愛か」を問わず人々のセクシュアリティをいかに貶めてきたかを暴き出している。この本を読むと、竹村自身がそうであったように、自分がいかに既存の言語に取り込まれていたかに気づかされ「自分が粉々に砕ける」ような感覚に襲われる。
一瞬、主語が何だつたかわからなくなつたが主語は「異性愛主義と性差別を両輪とする「正しいセクシュアリティ」の物語」である。それが加害側。そこで尾高や樋口が(まるで文革のときの知識階級のやうに)批判の俎上に載せられる。
尾高や樋口の議論に欠けていたのは、まさにこの自分が砕け散る感覚である。ノモスであれ個人であれ、その普遍的な理念がそれを演じる個別的文脈では必ず裏切られるという認識が両者には乏しい。
ちょっと待って。論理的に突飛すぎませんか。尾高、樋口のお二人はべつに国家を語るにあたり個を蔑ろにしたわけではないでせう。樋口先生は個人の尊厳は理解した上で、それでも国家主義者といふか国家を(民主主義同様かもしれないが)無政府状態の混沌は避けるために(必要悪的に)国家の存在を据ゑたはず。樋口先生の『個人と国家 - 今なぜ立憲主義か』は再読すべきだらう。それを個々の個別的文脈を論じなかつたから、と批判するのは時系列からしておかしなこと。樋口先生の『近代立憲主義と現代国家 新装版』ですらもう半世紀以上前の著作なのだ。「自分が砕け散る感覚」も曖昧。樋口先生がまだ少しでも現役であられたら来月の憲法記念日にでも上智大とかで江藤君招き緊急討論会でも開催されたら興味深いものになつたかしら。それにしても昭和31年に他界の尾高や九旬で余生を送られる樋口陽一に対して今どきのセクシュアリティの理論で、それに対する言及がなかつたと批判するのは禁じ手でせう。クィア理論でプラトンを評するが如し。
大きな普遍的な物語の背後には、必ずそこからずれる個別の物語がある。このズレを、女を男のように、同性愛者を異性愛者のように扱うことで解消しては、旧来の普遍を再強化するだけである。そうではなく、そのずれを、旧来の普遍=「正常な私たち」を瓦解させるものとみて、これを再構築する正義への訴えかけと受け止めることができるか。同性婚や夫婦別姓の是非が憲法問題として争われるいま、この点が主権者である国民には問われている。
……って、尾高、樋口のいずれも大きな物語の背後にある個別の物語のズレ(これも不明朗だが)を「女を男のように」「同性愛者を異性愛者のように扱うことで解消」なんてしてないでせう。憲法制定時に婚姻を「両性の合意のみに基いて成立し」と規定(憲法第24条)がしているのが、これは同性婚を禁止しているわけではないやうに。憲法でいふ「普遍」は「国民主権」が国家制において「人類普遍の原理」としてゐるやうな理念。小さな物語への配慮がないことで「旧来の普遍を再強化するだけ」は憲法の推論としてはトンチンカンなのでした。
(要旨)有権者を扇動する政治家やポピュリストをいかになくすか。20世紀終わりまで人々の心の中には神のような(絶対的な)ものがあった。何の制御力も畏怖もない国民(の団結)をどう維持すればよいのか。従来の民主主義はもう今の時代には解決方法として合わなくなっています。なぜ社会がこのように動いたか理解する必要がある。それは人々が今の民主主義を信じていないから。だから、の民主主義というものを守ろうとしない。選挙に行くこと、ある程度の報道の自由があることだけでは民主主義とは言えない。民主主義は滑稽なものになってしまった。
①2期を超えて政党代表などに就くことの制限。
②選挙で選ばれた人を得票数より多い署名があれば解任させられること。
③資金の透明性
世界は問題解決を模索しているが今は解決法が見つかっていないためポピュリストやデマゴーグが勝利してしまっている。この模索を経て我々がすべきことは善を選び、悪を排除していくこと。