富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

吉右衛門〈熊谷陣屋〉

f:id:fookpaktsuen:20211120210831j:image「香港に於いて中央政府の全面的な管理統治権を定着させることが一国両制を根本的に保障するのだ~っ!」と大公報。下らない論調だがきちんと続けて読んできてゐると
① 香港で一国両制の実現させることは中国にとつても意義あるもの
② 香港で一国両制は中国の体制との同調が必要
③ 一国両制を定着させるために香港は中央政府の方針を理解し実践すべき
④ 香港の一国両制の維持には社会の安定(非愛国者の排除)が必要
⑤ 中央政府の全面的な統治を受け入れることで一国両制が保障される
といふやうに香港の一国両制が中央政府の好きなやうに解釈され香港統治のワケのわからない口実になつてゐることだけは明らか。香港は中央政府の一挙一動で何うにでもなる一党独裁下での地方都市としての安定した地位を享受すべきである。


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先週の日曜も家人と細野晴臣「サヨナラアメリカ」の映画を見につくばに来たが今日は一人で「シネマ歌舞伎」で播磨屋の〈熊谷陣屋〉を見に来た。昨日からの公開で茨城ではつくばだけ。常磐高速を使へば水府から小一時間で行けると思へば気軽ではある。本当はもう少し日をズラしてと思つたのだが昨日から午前の時間帯1回だけの上映で客の入りはさつぱりで今日の上映も昨晩でまだ1席も売れておらず。実際に今日の観客はアタシの他に3人。春に播磨屋が倒れ復帰も未定で今後、病状は快方に向かつても舞台に立つことがかなり絶望的ななかでテレビでは鬼平播磨屋であるから播磨屋の当たり役である〈陣屋〉の舞台映像にもう少し観客が集まるのではないかと思つたのだが。この〈陣屋〉をアタシが初めて見たのがいつだつたのか。小学生に筋書きの深いところはわからなかつたが親が実の子を若君の代はりに殺して生首が出てくるのがとても残酷で強烈な印象。昭和47年正月の歌舞伎座幸四郎Ⅷの直実で弥陀六に仁左衛門XIII、義経富十郎鴈治郎Ⅱの相模といふ〈陣屋〉がある。これらだう、きつと。播磨屋(当代)の陣屋は何度か拝見してゐるが今日、この2010年4月の旧歌舞伎座さよなら公演の舞台を高解析度の映像で見ると「見えすぎ」の感あり。播磨屋の陣屋で映像といへば初代の昭和24年御園座での陣屋がマキノ雅弘監督のものがあり初代吉右衛門の見事な直実を今でも見ることができるのだが映像フィルムの画像の粗さもむしろ良さもある。この映像を改めて見たが初代吉右衛門も大したものだが何といつても大成駒(当時は芝翫Ⅵ)の相模の物凄さ。当時はまだ三十二、三でもうすでにあの大女形にしかない型ができてしまつてゐるのだから。初代吉右衛門を思ふと、さっと見た目では初代の雰囲気など当代仁左衛門丈の方がそれ風で播磨屋の芝居の濃度は舞台でこその濃度であつて高解析のデジタル映像向きではない。それでも音声の良さは今の映像作品の素晴らしいところで播磨屋の直実のセリフも、そして播磨屋が必ず一緒させる葵太夫さんの40代の竹本(この陣屋の前段)を堪能できるのが素晴らしい。そしてクリアな画像ゆゑ最後の直実の花道の引っ込み前で「十六年はひと昔、夢だ、夢だ」の名台詞のところで播磨屋も感極まり嗚咽だが客席で「花外」のドブ席最前列のお二人が悲しみも一入で涙を拭ひながら直実を見上げてゐる。まさかご自身の泣き顔がこんな記録映像に残るとは……だらうが。今から11年前の映像だが弥陀六を名演の天王寺屋(富十郎)はこの翌年鬼籍に入り 相模の藤十郎(山城屋)ももうゐない。高解析の映像で播磨屋は見えすぎと言及したが芝居が大きいからで義経役の梅玉さんはむしろ映像でなかなか良い芝居だと思つた次第。アタシにとつては昭和の最後、自分で積極的に歌舞伎を見るやうになつて何といつても大成駒だが勘三郎幸四郎松緑梅幸仁左衛門といつた大看板が並び中堅に辰之助染五郎吉右衛門、孝夫、菊五郎海老蔵勘九郎玉三郎がゐてといふ実に充実した時代で、その中堅の中でも播磨屋は40代前半で、もうすでに立役として十分なものがあつて見巧者の客を唸らせ大成駒屋の相手も立派に勤めておられた。昨年夏には古呂奈の疫禍下に自ら(松貫四)構成した〈須磨浦〉を無観客で演じて(観世能楽堂)この映像は村上湛君の解説で三月にNHK(にっぽんの芸能)でも放映され今年の秀山祭を楽しみにしてゐたのだが歌舞伎座での芝居が再開されても播磨屋は病床に。この直実も、もう舞台で見ることは(播磨屋が奇跡の復活をしたとしても)体力的にはもう無理だらう。さう思ふと初代とは違ふ形で直実を実体化した当代のこの芝居をしつかりと目に焼き付けておきたい。当代と葵太夫さんの竹本ももうこれから先にもうないのかしら。上映が終はると一人の初老のおひとが目頭を手で拭つてゐた。直実への感情移入だつたのか、播磨屋の芝居をもう見られないかもしれぬことへの寂しさだつたのか。歌舞伎座の正月には〈一條大蔵譚〉​​がかゝる。播磨屋さんがお元気だつたら……。


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映画が終はつて土曜昼の消費場(イーアスつくば)はコロナ感染など過去のことのやうな人混みでフードコートもどの店も行列。こんなところで食事する気にもなれずさつさと商場をアトにして天久保にある乾酪専門店(La Marinier)に往く。日曜から火曜が休みで前回は土曜だかに来たのに臨時休業。となりに「えびそば」なるもの供する金行といふラーメンやあり席も空いてゐたのでえびそばを啜りLa Marinierでチーズ数種買ひ求め水府に還る。

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つくばより戻り水戸市立博物館。「徳川頼房展」明日まで。NHK大河ドラマ(青天を衝け)で物語の緒に少年時代の慶喜と父で水戸藩第八代藩主の斉昭(竹中直人)が出てきたこともあり俄にプチ水戸徳川家ブーム。水戸黄門もあつたわけで水戸徳川家といへば第二代藩主の光圀(義公)と第八代の烈公で、もう一人といはれたら慶喜の弟で将軍名代として巴里に遣られ水戸藩末代藩主となる昭武(民部公子)だらう。今回のこの水戸市博物館の意表をついた頼房展は開催予定と聞いたときに思つたのは「もつのか、足りるのか」。頼房で展示する史料が十分なのか。展示は当然のやうに父・家康から始まり頼房の伏見城での誕生、駿府での少年時代から始まり水戸藩も佐竹家の秋田転封で家康の五男、信吉(武田)から頼宣(後の紀州藩士)でやつと頼房の時代となるのだが展示品は水戸東照宮に遺された頼房の甲冑など数点あり筆まめだつたさうで伊達政宗佐竹義宣らとの文信もいくつも残つてゐる。水戸を追はれた義宣となど関係もぎこちないだらうと思ふし齢も三十も離れて親子のやうだが実に親しく交はつてゐる。頼房は水戸には寛永の頃には毎年のやうに来られ水戸城と城下の整備にも着手するが将軍が同年齢で親しい家光となると頼房は親政に携はり水戸を訪れたのは逝去迄の17年でわずかに3度だつた由。展示も二代藩主・光圀のものに遷る。f:id:fookpaktsuen:20211120212139j:image
水戸城は北は那珂川、南は広大な千波湖に挟まれた低い台地の東端にあり、まさに水府。城下に下市、城の西に上市の街並みが広がり景観であつた。その千波湖がお城に近い東部がかなり埋め立てられ1/3ほどの大きさになつてしまつたことがまことに惜しい。この埋め立てがなければ後に常磐線も市街からかなり遠いところを走ることになり水府の都市の様相もずいぶんと異なるものになつてゐただらう。
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先日、水戸駅南を歩いてゐて面白い周辺案内図を見つけた。水戸駅には南口が設けられ通り抜けもできるやうになり駅前は商業地区化が随分と進んでこそゐるが駅前の大通りも、それと交差する道路も狭く、おそらく四半世紀ほど前のものと思はれる。トタン板に描かれたもので、かうした屋外の案内図は劣化が著しいのだが、こんなきれいに残つてゐるのは、これが地図上の櫻川にかゝる南北の駅南大橋と交差する櫻川沿ひの自動車道が実際には立体交差で大橋の下を川沿ひの道路が潜り抜けるところにこの案内図があつたから風雨を凌いだもの。それにしても駅南大橋の袂は公園広場など整備され歩道も広く櫻川沿ひも美しい緑地帯で、この橋下の道路など誰も歩く人はゐない薄暗いところなのだが、なんでこんなところに周辺案内図をかけたのか不思議。この案内図の一番おかしなところは埋立地で東西の道路は真っ直ぐで直角に交はるところ東西の道路がYの字のやうに屈折し櫻川も大きく湾曲してゐること。

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おそらく、これだけ東西に細長い一帯を見やすい周辺案内図にするために東西を圧縮して南北に伸ばした結果、案内図内のビルや会社、商店の区画はかなり細長いうなぎの寝床になつてしまひ、そこに名称を入れると細い短冊で読みづらくなる。そこで大胆にも東西の道路をYの字に斜めにすることでアクセントでもつけてしまつた結果なのか。

▼「維新、躍進のなぜ」(朝日新聞)菅野(山尾)志桜里さん
維新の支持者は「愚民」ではありません。維新を支えるのは、熱狂ではありません。確かに、そういう時もありましたが、今は違う。むしろ期待を込めた、消去法的な選択で票を集めているのが強み… https://t.co/EuHOr2Hnuv

天安門広場の入場が予約制に(朝日新聞)。 昔はこの広場は広くて「人が近くにいないから」とバックパッカーの外国人が、ここに坐って一服をキメていたものだった。中国ではマリワナを吸つてゐても警察もマリワナは煤けた煙としか思はないなんてアッケラカーのカーだつた。 その革命広場が天安門事件となり今では厳重警戒の場所に。