富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦丙申年正月大初一

fookpaktsuen2016-02-08

農暦丙申年正月大初一。正月祝ふが如き快晴。聴きたくもないが行政長官CY梁の正月祝賀のメッセージ見てしまふ。昼にかけ家人と裏山散策。昨年春に入手のピクニック用リュック初お目見え。戸川純ゲルニカ
リュックサックにチーズ入れ、今日は楽しい山歩き、最新型のケーブルカー♫
といふ歌があつたが実際にワインとチーズでピクニックはアタシも初めて。郊外で冬の燦々とひざし浴びてのお昼がこんなに楽しいなんて。ワインを詰めた水筒と通りがかりの英国人にピクニック用品にいたく感動される。それにしても山あひのこの場所、戦時中は日本軍の侵略と戦ふ英国軍の野営場跡。そこで酒盛りとはやはり平和が一番。帰宅して午睡。小島政二郎『食いしん坊』読了。晩に大根おろしとクレソンの鍋で豚肉しゃぶしゃぶ。新潮社季刊誌『考える人』2016年冬号「病とともに生きる」読む。大病繰り返した澤地久枝刀自の凛とした生きる姿勢が素敵。
小島政二郎は、今日までコジマセイジロウだと思つてゐたがマサジロウでした、昨年末にこの人の『小説 永井荷風』余りの詰まらなさだつたが『食いしん坊』は戦後の大阪で『味』といふ雑誌の編集をしてゐた若い女性(水野多津子)が独立して『あまカラ』といふ雑誌(これと今の『あまから手帖』は別もの)出すことになり見ず知らずの小島はこの水野さんに請はれ原稿料も求めず食道楽の話を書いたのが始まり。小島の美食ぶりに加へ「三田文学」時代からの、アタシはどうしてもこの三田系の作家たちが好きになれないのだが、小島と久保万、水上瀧太郎里見紝永井龍男らとの交流の面白可笑しい話を美食談に盛り込み、この連載随筆はずいぶんと評判となり小島は「私が小説でいくら傑作を書いても誰も褒めてくれないのに、この「食いしん坊」は載せ始めから好評嘖嘖で……」「私の小説で単行本になったのは幾冊くらいあるだろう……そのうち版が摩滅して用をなさなくなったという本は一冊もない、小説家として不本意の至りだ、ところが無造作に書いたこの「食いしん坊」が版が摩滅して用をなさないくらい売れたのだ」と本人が嘆き喜ぶほど人口に膾炙したのは戦後の昭和20年代で人々がまだ食べ物に飢えてゐた時代に、戦中も戦後もなんだかんだと美味なる材料、調味料を調達し美味いものを食べようとする小島のバイタリティに対する巷間からの憧れ。それにしても小島のこの食欲は立派。戦時中とて大衆小説は当局に睨まれ小説書けぬ頃も三田の仲間と軽井沢だ信州だ、で美味いものを食べてゐる。この連載で下戸の小島が甘党で、やたらと褒めるのが東京は越後屋の小豆と水羊羹、上方は鶴屋八幡なのだが後者は雑誌『あまカラ』のスポンサーで、前者は小島が空襲から敗戦後、この越後屋を探しまわるのだが今の本所にある越後屋若狭がこの流れ。小島が名菓「つきせぬ」の名前の由来がわからぬ、と書けば鶴屋八幡の山中善治が謡曲「猩々」の「よも尽きじ」からでは?と教える。三田を中心とした作家との話の中では芥川と鏡花の話は格別。鏡花は今でこそ日本の近代文学で評価高いが生前は作品が円本ブームなどに乗らず麹町下六番町で家人との清貧極めた生活ぶり、芥川の

永井家風の江戸賛美論なんか論になっていやしない。悪い方面には一切目をつぶっていいところばかり拾ってそれを讃美しているんだから、こんな無責任なことはない。キミ(小島)の平安朝讃美も同じことだ、久保田君(万太郎)の議論にもそういうところがある。三田の伝統かね。

なんてセリフは痛快そのもの。小島のこの「食いしん坊」は本当に彼の小説の出来とは比べ物にならぬ名著。

食いしん坊 (河出文庫)

食いしん坊 (河出文庫)


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