富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

多喜二忌

fookpaktsuen2015-02-20

正月初二。曇。春節の連休。終日書室に籠り映画監督S君に個人的に頼まれた映画台本の和訳(あくまで映画祭出展のための、で公開用に非ず)に呻吟。和訳ぢたいけして難しくないが例えば
真理越辯越明,很多似是而非的教條,其實經不起思想的考驗。列寧說過,偏見比無知離真理更遠。
といふ中文ならとても簡潔でわかり易いフレーズが、これを日本語で
真理は説けば説くほど明らかになる。尤もらしい教条の多くは、その実、あまり思想的に考えぬかれたものじゃない。レーニン曰く「偏見は無知より更に真理を遠くに追いやる」
とした場合、言葉がなんて饒舌なのか、まわり口説いのか、と思ふ(これでもだいぶ言葉を削ぎ落としてゐるのだが)。それを気にしてゐても先に進まないのだが。昼餉に大根餅焼く。夕方、TBSラジオのデイキャッチを聴く。ゲストはピーター=バラカン氏と宮台先生。中東でのテロ、晋三の野次について至極真っ当なコメントだが、これですら「よくラジオで語れるよな」と思へるほど世の中は体制翼賛的。マスコミの自主規制が怖い。晩は自家製餃子焼く。晩遅く近所の映画館でサンドラ吳君如の制作・主演で映画『12金鴨』見る。サンドラといへば花街で糊口を凌ぐ一人の女性主人公に香港の現代史、世俗織り交ぜ描いた『金鶏』(2002年)が人口に膾炙し、これの続作『金鶏2』、昨年はそれから10年で『金鶏SSS』で置屋女将役の造り物の巨乳が話題になつたが今回は鶏から鴨、つまり高級ホストで男役。そのボーイッシュさ話題となり今回の造り物は諸肌脱いでの端正な胸筋と腹筋……で、話題はそこまで、でそれ以上の面白みには欠けるのが残念。
朝日新聞慰安婦報道」の核心といふ副題で青木理「抵抗の拠点から」この出版が講談社。ここで興味深いのは「血祭りの対象を求めて熱狂する「名もなき大衆」の不気味さ、怖さ……と高田昌幸による書評(週間読書人二月二十日号)。これを読んでふと伊丹万作の「戦争責任者の問題」思ひ出したが評者(高田)も同じく万作を引用してゐる。青空文庫で万作のこれ(こちら)再読。

いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

として万作は、それが

ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。(略)たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。(略)だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり……

と語る。一国の首相が国会で野党議員の質問に「日教組!」と揶揄するのを非難するどころか「まったくしやうがない」と苦笑で済まし内心「よく言った、総理がまたもサヨクをギャフンと云はせた」とスカッとしてお終ひか。日本ぢたいがこれでお終ひ。

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)