農暦一月十三日。極寒。摂氏六度。維納や東京とほゞ同じ気温だとは。今日のアタシは誰が見ても「具合悪いんですか?」といふ面。マスクにマフラーで目が腫れてゐてはわかりやすい病人。晩に湾仔。劉健威兄の留家厨房に飰す。鹿児島より客人あり県人お三方とS嬢、Z嬢。北角清風街にあつた同店に飰したことあつたが湾仔になつて初。やはり美味。劉健威兄が肆にをられ歓談。氷雨。
▼日本政府の観光キャンペーン広告。壽喜焼で「すき」焼きはいゝが牛肉、大きすぎ(笑)確かに a different Japan なり。
▼中共で文革末期、周恩来首相逝去に「総理遺言」偽造の李君旭さん逝去。享年六十一。四人組の時代で周恩来の遺言の公開されず。そこに巷で突如現れた周恩来直筆の遺言。王洪文、訒小平と張春橋の三人に自分の仕事を分担させ、とくに訒小平が評価され、自分の追悼会は簡素に、毛澤東の参加は不要、遺骨と灰は遺さず……と。これが実は一青年、李君旭による周の筆跡まで真似た偽造。それが携帯もネットもない時代に謄写され、筆写され全国にいくつもの謄本が流布され周恩来の死を悲しむ人民の間で読まれた出来事。この青年は四人組政権下で逮捕され死刑判決となつたが四人組失脚後に無罪放免、但し足に後遺症残り車椅子生活。この李君旭、出自は両親が英国のケンブリッジ大学に学んだ書香世家の出で、父は浙江省第一医院院長、母は浙江医科大学教授……だが当然のやうに文革で知識階級として弾圧受け君旭は「遺書」書いた当時、杭汽輪機廠の工場労働者。同僚の青年たちと冬の寒いなか狗肉鍋をば頬張つてゐて「周恩来首相の遺書がないわけがない」、党中央の周恩来逝去の対応が手緩いことに不満感じて君旭はその夜、帰宅するなり認ためた総理の遺言状。君旭さん逝去にあたり本人の遺言状はなかつた由。
▼元陸上選手の為末大氏が指摘する日本スポーツ論(日刊スポーツ)。秀逸。
私は日本的精神論とは①足りないリソース(資源)を気持ちで補わせる②全体的問題を個人の努力に押し付ける、だと考えている。結果が出せないことに批判が集るたび、ここ数年続くブラック企業を想像してしまう。全体として足りないリソースを残業などの個人の努力で補う。「できる、できあに」は気持ちの問題。それと似た空気を五輪の期間中も感じている。マラソンの円谷幸吉さんが重圧に押しつぶされ、自殺したのは1968年だった。日本はあれから、どの程度変わったのだろうか。
▼昨日の華盛頓ポストの社説“Japan’s historical revision deserves clarification from Prime Minister Abe”(こちら)。晋三の姿勢にかなり批判的で“U.S. officials, too, are wondering whether Mr. Abe is primarily a nationalist or primarily a reformer.”と問ふ。アタシの回答なら
He is not conservative but a 'nationalistic radical reformer' as same as his grandfather Nobusuke Kishi and Kishi's comrades to follow state socialism.
である。こんな美しい日本に向けた改革に晋三邁進する陰で村山富市元首相訪韓で慰安婦だつた女性たちと面談したり日韓関係維持に尽力。お労しい。