富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2012-08-27

農暦七月十一日。集英社の文芸誌「すばる」八月号読む。吉田秀和氏が「思い出の中の友達たち」といふ連載してをり、その絶筆となる最終回で人文学者(とカテゴライズするのが一番だとアタシは思ふが)今井冨士雄(1909-2004)の巻が掲載され、この内容はバルバラさん亡くしたあとの吉田秀和の非常にテンポの良い、饒舌な語り口で、この方がまさか急逝するとは思へない、頭脳明晰のまゝほんと突然の心臓停止だつたのだと思はせる内容だつたが、これが掲載されてゐたのと秀和さん晩年のインタビューで立派な仕事された堀江敏幸小澤征爾の追悼の文章も出てゐるのといふので、さういふわけでふだん読みもしない文芸誌注文して取り寄せたもの。前述の通り秀和さん自身の「思い出の中の友人たち」が今井冨士雄といふ無二の大親友、しかも92歳といふ秀和さんよりは短いが長寿のその友人を取り上げた回が最後なのは印象的だが堀江と小澤の二つの追悼は合はせて5頁で、正直言つて「それだけ?」の吉田秀和追悼だつた。堀江の「水天宮のモーツァルト」はなか/\読ませる文章だつたが若い人だけにアタシらが知らなかつたやうなことが書かれてゐるわけでもない。小澤征爾の「直感の人、吉田秀和」は数ヶ月前に「思い出の中の友達たち」で征爾さんが取り挙げられたらしいが、アタシらも知つたやうな話が続く。

最後にお会いしたのは、今年一月の水戸での演奏会の後、水戸から鎌倉のご自宅に帰る前に、僕の家へお寄りくださったときです。水戸の演奏のあと僕が体調を崩したと知って、心配して様子を見にいらした。翌日の東京公演の指揮を半分だけやるつもりだといったら、「やれるなら、やりなさい。でも身体が第一だから」とおっしゃいました。これも後から知ったことですが、ある公演で僕の指揮が突然キャンセルになって客席が騒然とした際に、吉田先生が客席のその場で立って、観客に説明してくれたことがあったそうです。受けたご恩の大きさに、本当に頭が下がる思いです。

と。あの水戸の公演で小澤征爾を聴き逃したアタシとしては何だか時系列的に小澤征爾の言動に納得もいかないのだが一月の水戸での水戸室内楽での演奏会は19日と20日。19日は無事に指揮をしたがアタシも出かけた20日がこの小澤休演。まづ「水戸の演奏のあと体調を崩した」とあるが正確には19日は何とか指揮をされたが体調不良で20日が取消し。「水戸の演奏のあと」ではなて「水戸の演奏会の日程中に」のはず。更に「突然キャンセルになって客席が騒然とした際に」といふのも何ら事前説明もないまゝ観客を入場させてから小澤征爾休演と発表したものだから暴力バーのやうなやり方に一部の客が騒然としたわけで、そこで観客席にゐた水戸芸術館長の秀和さんが立ち上がつての説明。而も「ホテルで今朝、小澤さんから体調不良で指揮ができない」と告白された、と余計なことに言及してしまひ「なんだ今朝もう決まつてたの?」と客席はざわ/\。で19日の昼のうちに小澤征爾は東京に戻り館長の秀和さんは20日晩の指揮者なし演奏をお聴きになつてゐる。で「翌日の東京公演の指揮を……」が22日であるから、20日晩に水戸に一泊した秀和さんが21日に東京で小澤征爾を見舞つた、これがお二人の最後に会つた日となつた。今年一月の、これだけはつきりしたわずか数日間のことなのだから小澤征爾がいくら体調が良くないとはいへ「水戸の演奏のあと」だの「ある公演で」なんて表現が現場にゐたアタシとしては正直言つて面白くない。この「すばる」は文芸誌なので高樹のぶ子、丹下健太、赤川次郎柴田元幸訳の米文学……なんて並ぶのだがアタシは相変はらず小説を読む気が起らず「井上ひさし」を巡る辻井喬成田龍一小森陽一の鼎談も何だかタコツボ論議で面白くもない。奥泉光いとうせいこうコンラッド『闇の奥』を読む、が唯一の収穫と思へたのが本音。