十月十日(金)快晴。寸暇惜しみ映画『20世紀少年』見る。香港で鳴り物入りでの前宣伝は日本での同作品のヒットに加へ70年代から日本とほぼオンタイムでウルトラマンや仮面ライダー、ガッチャマン、ロボコンで育つた香港では同時代の東京の子ども世界は受入れ易からう、といふ判断か。ただ香港での興業が早々とコケたのは140数分も見せられてまだ/\物語の三分の一、で何も結末もなし、ッてのが香港の映画観衆納得するはずなし。なんだかこゝ数年「Always 三丁目の夕日」が昭和三十年代なら、昭和50年代が「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」、でこの「20世紀少年」が昭和40年代と、香港でも昭和懐古の邦画をよく見る。ふと思へば今日は四十数年前に東京オリ厶ピック開幕。「20世紀少年」は原作者を含め1960年代生まれの少年たちが不安定な21世紀に40代で「当時のあのパワーをもう一度」気分で幻想した漫画と映画なのだらう、が想像力豊か当時の少年たちにも高度経済成長の後に「バブルといふ疫病」が蔓延し「金融」といふ怪獣が世界を席巻し大都市をメチャクチャに破壊する、といふシナリオはさすがに想像できなかつたか。それにしてもこの映画、前半はぐゐ/\と観衆を物語に引き込むのだが、主人公の営むコンビニ(酒屋)が焼失するあたりから主人公がどうテロリストに仕立てられたが全く描かれもしないのに本筋に絡まぬ枝葉のチョン話など少なからず(やはり映画の基本は山田洋次の脚本だらう……あくまで脚本家としての山田洋次)。物語は広がりすぎて二進も三進もいかず収拾つかず、の、もはや安部晋三モード。娯楽映画のシナリオにケチをつけるのも野暮だが、日本の民度がいくら低くても20年やそこらで2015年に明らかに怪しいカルト宗教母体とする政党の一党独裁国家にまでは落ちぶれまい。同じやうな近未来設定でも大友克洋や村上龍の「コインロッカーベイビーズ」のはうが「こうなつてもをかしくない」的な現実感あり。三部作で製作費60億円の大作ださうだがアクション映画としてもノスタルジー映画、友情物語としても中途半端、CGの駆使もベタなテレビドラマ的下町、お茶の間セットとのギャップ大きすぎ。映画だから「さて/\犯人はいッたい誰か、お話の続きに乞うご期待!」と出来たものの、香港の客など二時間以上見せられて結末なしでは、いつも以上に早くエンディングロールで席を立つから最後のおまけの第二話の予告編すら見る奇特な客は稀。アタシ自身、あの時代へのノスタルジー的なもので二時間以上見続けはしたが二作目は「もう結構」な気分。帰宅して自家製の牛丼を食す。NHKでは番組の合間に太陽の所為での受信障害に関する情報流してゐたがNW9といふ番組こそ田口五朗なるキャスターの人選はまさに放送障害だらうに。
▼最近ふと気になつた言葉二つ。一つ目は緒形拳の逝去看取つた津川雅彦の「歌舞伎役者のやうに虚空を虚空をにらみつけてゐた」。虚空を睨むのは舞台で歌舞伎に限らず、ましてや新国劇が出自の緒形拳に「歌舞伎役者のやうに」は無からうに。新国劇といへば辰巳柳太郎と島田正吾の大往生があり緒形は若すぎる。澤田正二郎を島田正吾が受け継ぎ確か島田の三回忌だか追善興業で緒形拳の演じた「白野」の芝居だけは見たかつた。もう一つは宮中での北京五輪受賞者の茶会に招かれた柔道金牌の石井慧が陛下の御前で宣つた「昔からの日本人の気持ちを忘れずに前面に出て戦ひました」ッて昔からの日本人、ッて誰よ? 「昔からの日本人の気持ち」をこの柔道家に國士舘で具体的に200字で書かせてみたい。実際には存在もしない(或いは明治20年代頃から創られた)精神論の、かういふ幻想の言葉の跋扈が怖い。梅原猛なら「キミ、これは縄文人か、弥生から渡来人系のことか、はッきりし給へ」だらうが、そも/\陛下が「昔からの日本人ではない」新王朝の末裔だとしたら、この柔道家の言は畏れ多すぎる。
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