十一月八日(火)晴。朝、客人を銅鑼湾のホテルに迎え某所に案内し昼前に空港に送る。昼にHappy Valleyの寿司・澄にて鉄火丼。諸事忙殺され一更に至る。本晩、プロレスラー和泉元彌君の狂言公演が香港大学である由。先週木曜日だかに横浜アリーナでのプロレス興業あり昨日には来港とはさすがタフな巡業なり。帰宅してテレビつけるとNHK(国際衛星)の画面に長谷川一夫。愉快に芸談を語る。はっ、と「長谷川一夫も亡くなったのか?」と驚いたが口にしなくてよかった。「あら、やだ、おじいちゃん、長谷川一夫が亡くなったのはもう二十年も前のことでしょう?」と笑われそう。そう、長谷川一夫は、長谷川一夫というより林長二郎のファンであった余の祖母と同じ年に亡くなっていた。突然の長谷川一夫の芸談だがNHK映像ファイルの「あの人に会いたい」という10分番組。突然見ると驚くので「この映像は1979年のNHK「芸能花舞台」の映像です」とかテロップ流してほしいところ。
▼ペルーのフジモリ「容疑者」が智利で逮捕される。智利ならペルー政府の「逮捕請求」に応じないとタカをくくったのか予測された上での立ち寄りだったのか。いずれにせよプライベートジェット機でのご渡航とは贅沢なご身分。日本政府がフジモリ容疑者をば厚遇にて匿った本当の理由は何か。たんにフジモリ氏が日系人で日本国籍を有するとの判断の筈もなし。開発援助絡みとかいろいろ噂もあり。
▼フランスで都市暴動さわぎ。他民族含む共和制の「危機」にシンガポールや中国など「それ見たことか」と言いそう。だが今日の信報では林行止専欄は巴里の株価の安定を例に挙げ、この程度のことでヘコたれるフランス政治ではない、と力説。むしろ政治異変を受け問題を解消していくことに共和制の強さを期待。数十年、この信報なる新聞の社主、論説主幹として言論に生きてきた人の強さに敬服するばかり。
▼朝日新聞にパール=バック原作・脚本の日米合作映画『大津波』(1961年に米国公開、タッド=ダニエルスキー監督)についての記事あり。パール=バック原作・脚本に主演が早川雪洲、音楽が黛敏郎、特撮が円谷英二……なんてこった、という布陣。映画の存在については廿数年前にNHKのプロデューサーM氏に話を聞いたことがあったが日本では上映の記録もはっきりせず映画撮影の舞台となった雲仙の観光協会が川喜多記念映画文化財団にフィルムあること突き止め40数年ぶりの上映、と。全編が英語の作品。朝日の記事によると、筋は、海辺の村に住むトオル(成人した若者だが演じるは当時弱冠13歳の伊丹十三!)は漁師の子。火山の爆発と噴火で家族失い友達のユキオ(ミッキー=カーチス)の家で育てられ、裕福な長老(早川雪洲)の養子になる誘いも断り、漁師になるべくユキオの妹・セツ(ジュディ=オング、この映画がデビュー作)と海に去ってゆく……と、ただ「見たい!」の一言。パール=バック自身も1927年に雲仙に4ヶ月ほど滞在(南京事件からの疎開)。その時に聞いた大津波の話を題材に47年に原作小説を発表(この邦訳(トレヴィル刊!)は絶版だったが径書房から2月に復刻)。この径書房の原田純社長が「映画『大津波』とパール=バック研究会」結成。伊丹十三は商業デザイナー経て俳優業、というのが常識。勿論言わずと知れた万作の息子であるからチャンスはあったにせよ13歳でこんな映画に、それも成人した漁師役で出ていたとは驚くばかり。で、偶然ではあるが朝日の衛星版ではこの『大津波』の記事(写真は海辺での伊丹十三とミッキー=カーチスの姿)の隣に大江健三郎の「伝える言葉」という連載の随筆あり(伊丹十三と大江健三郎が愛媛の高校の同級生で伊丹夫人が大江先生の妹)。ふだんあまり読まぬ連載だが宮城県の高校で創立10周年記念で大江先生が講演、という書き出しに、記憶にもまだ新しいのは何年前だったか新潟県の三条高校が創立百周年の記念講演会で大江先生に講演依頼したものの校長が「こともあろうにノーベル文学賞の」作家に対して「大江さんの過去の講演集を読んだが、全体として政治的な話題に言及されている。政治の話題を取り上げる場合には、中立となるように配慮してもらいたい」という趣旨の手紙を送り大江先生が講演辞退。この当時の校長の名前が笠原「中庸」ということ今になって知る。それで中立を期待か(笑)。で、それに比べ宮城県の民度の高さ。この宮城野高校の校長先生は大江氏に対して「知る」ことより「わかる」ことへの手がかりになる話を聞きたい、と求めた、という。大江先生も高校では政治的な話はせぬそうな。連載では憲法の話。古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波書店)を取り上げて紹介。憲法9条成立が東京裁判での天皇の戦争責任に及ぶこと防ぐためのマッカーサーによる政治的工作によるものであること、沖縄を切り離し基地化することで本土の非武装化が可能と判断された経緯など。戦争被害国に対する戦争責任が曖昧となり日米関係が優先される戦後の実態が出来上がったこと。自民党の憲法草案の前文にある「気概」といった言葉一つでも警戒が必要なことを説く大江先生は古関氏の本の結びを紹介する。
平和を守るために国家の権力行使を阻止するのみならず個人の人権主張、「恐怖と欠乏」を除去するための活動をいかに憲法で保障することによって国の安全を確保するかを議論しなければならない。時代はむしろ軍事力によって安全を確保できる時代ではないのだから。
▼築地のH君に「丸山眞男の手帖」なる集合を教えられる。
その「丸山眞男の手帖」あった話、とH君に教えられたのは、丸山眞男をめぐる話。後藤田先生、安東仁兵衛先生と梅本克己先生(いずれも故人)は旧制水戸高校の同窓生。余談であるが当時、余の祖父の営む飲食店は彼ら水高生の溜まり場。とくに入り浸りは、のちに作家の舟橋聖一先生。何の偶然か余が書斎にて昨晩遅く開いた本が梅本克己の追悼本と、郷里の昔の泉町なる商店街の回顧録であった。梅本克己の追悼文集は梅本克己の奥様より余の母が頂戴したもの。この商店街の歴史記録『泉町物語』は郷土史家であった故・望月安雄氏より余が直接いただき余に「謹呈」と裏表紙にあるのを懐かしく読む。すると今朝、突然、築地のH君よりこのメールが届き偶然に驚くばかり。閑話休題。東大闘争時に当時警察庁次長だった後藤田先生が安東仁兵衛を通じて丸山眞男と秘かに接触し封鎖解除のために機動隊導入について交渉をしていた、という「噂」あり真偽不明のまま30年以上語られてきた、といふ。この「眞男の手帖」の編集者が、これを確かめるために後藤田先生を議員会館に訪ねて本人に確認したところ先生は「残念ながら」丸山眞男との面識はなかった、と。だが後藤田正晴と安東仁兵衛、梅本克己との交遊は事実で、とくに梅本克己先生とは一級違いで寮生活をともにした仲。築地のH君が懐かしむのは、当時のエリート内部での左右を越えた交遊。双方に幅。少なくとも加藤紘一や亀井静香あたりまではそれがあったはず。これがダメになるのはやはり全共闘時代からか。当時、秩父宮ラグビー場で「東大正常化」集会を仕切った前外相に、どれだけ全共闘側の同級生と人的な交遊があったかしら。戦前の共産党の場合は検挙されても検事や裁判官は同級生とか、河上肇のように自らの教え子が向こう側にズラリと並ぶ関係。大学の教え子が恩師を裁く世界。それが今ぢゃ丸山眞男の弟子がノーパンしゃぶしゃぶの中島某。片山さつき代議士が「エリート」と言われる世界。話は戻るが後藤田先生の「執務机の上には4日前に成立したばかりのテロ対策特別措置法に基づいて小泉内閣が国会に提出したPKO協力法改正案のコピー、しかも赤のサインペンでアンダーラインや疑問符のついたそれが載り、九月十一日ニューヨーク同時多発テロ後に自衛隊の海外派兵を正当化する法律が矢継ぎ早に成立してゆく状況を、「満州事変前後と同じだよ。みんなこれはいかんな、いかんなと思いながら、どんどん、どんどん引きずられてなし崩しに行って、結局ダメになっちゃったのを同じだよと言ってるんです。止められなくなる。と述べまし
た」そうな。「丸山眞男手帖の会」はこちら。今年の終戦記念日の「復初の会」では樋口陽一先生が「憲法学にとっての丸山眞男『弁証法的な全体主義』を考える」と講演をされている。樋口先生相変わらずダンディ。今年の夏は樋口先生は殊に「「クールビズにはしない」とゆうことで敢えて必ず上着とネクタイは欠かさなかった、という噂もあり。
▼築地のH君が自らサイトなどもたぬ人ゆへ敢えて彼の文章を積極的に載せる。「希望について考えると」の厄介な問題さ。魯迅のいうように「歩く人が多いとそこが道になる」ようなものなら、こんなに歩く人が少なくなってしまうと、じゃあもう希望はないのか?と絶望せざるをえない。いや魯迅のいうのは「絶望する前に、そこを人が歩くように誘導する努力をせよ」ということなんだろうが「いくら頑張っても誰も歩いてくれない」ときはどうしたらよいか。人間が「希望についてシニカルに語る権利がない」存在であるとして、しかし誰もその道を歩こうとはしない。そのなかで尚、希望について前向きであろうとした時に「必然的にテロリズムの肯定に至るしかないのではないか?」という問い(?これについては啄木など思い出す……富柏村註)。ロシアのナロードニキは、あらゆる特権を捨てて「人民の中に」入ろうとして、その人民に拒絶されて「希望」をうち砕かれる。ここでシニカルになり「これだから貧乏人はヤだよね。俺は貴族に戻っておもしろ可笑しく暮らすよ」となってもいいはずなのに敢えてそれをしなかった人びとが「ニヒリスト」(虚無主義者)としてテロルを選択する。自分の「希望」に誠実であろうとしたからこそのニヒリスト(?この屈折した回路については、書けばもっともっと説明がいるかも知れない)。シニカルに生きる「権利」があるならテロは選ばなかったはず。パレスチナの状況に即していえば、パレスチナ人がイスラエルの世論を合法的に動かすことは不可能。「国際世論」に訴える手段すら持たない人びとが、なお希望をもちつづけようとすれば「とりあえず目の前にいるイスラエル軍兵士を一人でも多く殺す」という以外に現実的な手段は思いつかず。自爆テロを選ぶ者にしても、自分の自爆攻撃によってそれがパレスチナ解放闘争のために何かの足しになるという希望を信じているからこそ。本当に絶望しているなら、そんなことはできなぬ。「絶望すら許されない」ということのツラさ。