富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月十六日(土)朝一旦帰宅して急ぎ雑事済ませまた某宿泊先へ戻る。天気は絶好調だが午後遅くまで室内に籠りまずはじつくりと新聞数紙読みダワーの『敗北を抱きしめて』下巻読むが微睡みばかり。東京裁判を勝者による厳正さ欠ける法廷とする論調がキョービでは当たり前のようになり直近の週刊文春でも小野田寛郎阿川佐和子相手の対談で東京裁判について「あれはラグビーの試合やって、終わってからこれはサッカーだったんだ、お前はボール持って走ったからルール違反だと言われるのと一緒。自分だってボール持って走ったじゃないかと本当は言いたいですね」とここまでは多少「確かに」と思うところもあるが「裁判になっちゃいないですよ。マッカーサー東京裁判結審の二年半後に上院で「あれは日本の侵略戦争じゃない」と証言してるんです。自衛のためだったと」と指摘。阿川佐和子が「もっと大きな声で言ってください(笑)。」とバカなかけ声。ダワーの著作を読むと東京裁判は確かに勝者が敗者を裁く裁判であるが日本は被告の立場でなく國體の維持と天皇制の存続、裕仁天皇の続位のために進駐軍とかなりの共同作業があり東条英機A級戦犯は連合国側からではなく我が国から「天皇を守るために戦場ではなく正義の法廷において文字通り死ぬことを求められた」といふ。生贄之羊。それを思えばA級戦犯靖国神社に合祀されることには一理あり。単に戦争で命を落とした、とすると戦争に兵隊を駆り立てた東條らは加害者であるがお国のため、天皇のために命落としたといふ点では東條らのA級戦犯は誰よりも祀られるべき対象なのかも。ある面では小野田寛郎の言ふ通り東京裁判は裁判になつていない。が後藤田先生も指摘している通り東京裁判は日本を独立国家として再建し国際舞台に出すために必要な通過儀礼なり。小野田寛郎が取り上げたマッカーサー自衛戦争「史観」はダワーの著作を読みながら考えると、あの無表情なマッカーサーがかなり彼なりの理念上の<日本>といふものが存在していることがわかり、それを考慮すればマッカーサーの日本の見方はけして客観的ではなく寧ろ(上手く表現できないが)ジョセフ=コンラッドの“Heart of Darkness”的なものかも知れぬ。午後遅く帰宅。最近やたら楽しい市場での食材調達。夕餉。アボガドとトマト、緑アスパラのサラダ。トマトと挽肉のパスタ。新西蘭のNobiloなる白葡萄酒のSauvignonの04年。自宅にいる時間が多く必然的に片付け整理整頓。Gary張智強の“Hotel as Home”なる本を見たことで意識的に“Home as Hotel”しているところもあり。晩遅くなつても気温は摂氏三十度下回らぬ超熱帯夜。黄角ソーダぐいぐいと飲む。
▼昨日のヘラルドトリビューン紙にシンガポールの映画監督Royston Tanの新作“4:30”紹介する記事あり。昨年の香港映画祭で彼の“15”がいまだ印象に強く残る。今回の作品はNHKが拘つておりシンガポールの文化基金だかの援助もあるようで“15”に比べれば普通に収まるのだろうが。

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