富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

七月十七日(日)快晴。家事諸事あり。天文台の天気予報で摂氏三十四度。炎暑さ猛々しきなか裏山から大潭を下り島南岸の浜辺に至る。熱中症で倒れても不思議でない結果10kmのランニング。大潭もダムこそ満水の水湛へるが引水路はさすがに渓流の流れ失せる。天下の実際は四十度近いか。さすがに途中歩く。ふと二十年ぶりかでマルクスエンゲルス共産党宣言』読む。昭和41年第27刷の岩波文庫で★1つ。大内兵衛向坂逸郎の簡潔なる訳。この四十年も前の岩波文庫版を何処から入手したのかも記憶になし。共産主義の優位と党の指導についての理論的根拠と肯定については具体的な共産主義の「実現」と現実を見てしまつた我々には当時のこの書物に書かれたことをそのまま信ずるには能わぬが例えば今日われわれがグローバリゼーションと呼ぶ社会についての文章。
ブルジョア階級は、世界市場の搾取を通して、あらゆる國々の生産と消費とを世界主義的なものに作りあげた。反動家にとつてはなはだお氣の毒であるが、かれらは、産業の足もとから、その民族的な土臺を切り崩した。長年の歴史をもつた民族的な産業は崩潰されてしまひ、またなほも毎日破壞されてゐる。これを押しのけるものはあたらしい産業であり、その採用はすべての文明國民の死活問題となる。しかもそれはもはや國内の原料ではなく、もつとも遠く離れた地帶に産出される原料を加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は、國内自身において消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸においても消費されるのである。國内の生産物でみたされてゐた昔の慾望の代りに、あたらしい慾望があらはれる。このあたらしい慾望をみたすためには、もつとも遠く離れた國や氣候の産物が必要である。地方的であり民族的であつた昔の自足と隔絶の代りに、あらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存關係があらはれる。物質的生産におけると同じことが、精神的な生産にも起る。個々の國々の精神的な生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狹は、ますます不可能となり、多數の民族的および地方的文學から、一つの世界文學が形成される。
を読むと百六十年も前にこのグローバリゼーションを見通していた二人の思想家の偉大さ痛感。この共産党宣言の第一章はその社会構造の分析の見事さからして永遠に読まれ続けるべき。マルクスエンゲルスの予想外となるは、資産階級と無産階級との社会の分化の中で無産階級が団結どころか若い人口が労働力になることすら回避したこと。そして工業化はかつての労働力を必要とせず。彼らが「放っておかれる」こと。工業化社会での労働力になる荷担もなく投資者として余剰資本の再生産に加担することもなし。熟練の技術であるとか専門知識もない点では農業など経験を要する生産にも就業できず。資産階級と無産階級に対して彼らは「非産階級」とでも名づけられようか。この非産階級の誕生と増加が社会をどう変えるか。革命かも。資本主義社会が彼らにより崩壊される革命。……これで新書が一冊書けるかしら。レモン搾ってウオツカレモン。日が長く明るいうちに大河ドラマ義経」観る。番組冒頭の配役に大江広元松尾貴史とあり。演じるを見て全くニンがない。当代一の文官である、のちの幕府公文所別当となる大江広元の役は「やはり岸田森」。岸田森の天逝が四十三歳で79年の大河ドラマ草燃える」で見事に広元役を好演が四十歳であつたとは今さらながら驚くばかり。ちなみに問注所執事となる三善康信も「草燃える」の石浜朗が今でも彷彿されるのは言う迄もない。木曽義仲の息子・義高を斬首にした頼朝が斬首に異を唱えたであろう義経を斬首済んだあとに呼んで武家の世について理想を語るシーン。わずか数分の場面であるが眉間に皺をよせた表情のタッキーに対して中井貴一の一見厳しい表情だけだが実に豊かな表情の変化。これぞ役者。思慮深い頼朝を好演。だが頼朝もいつ義高が父を殺した恨みで自ら(頼朝)を殺そうとするかわからぬ、身内だからと温情はかけられぬ、と冷静ではあるが「源氏でも平家でもいいのだ、望むは武士(もののふ)の世」と言ってはみせるが結局は嫁家の北条に天下とられると思うと義高に対する斬首が冷静さといふより自らの半生でのトラウマにしか思えず。冷静なようで実は頼朝の思考には幼少期からの怯えが根強いこと。脚本と演出がそれをよく映す。当然、中井貴一の好演あつてのことだが。先週からのこの源平合戦見て興味深いのは法皇もさることながら武家である源平も天皇といふ存在より何よりも三種の神器への執着。これをもつことの正統性。ダワーの『敗北を抱きしめて』でも昭和天皇人間宣言、あれは「人間宣言」と言われているが正確には「新日本建設ニ関スル詔書」と言うのだそうな。それだけでもそれがけして天皇の神格否定が主旨でなく新日本建設のために必要な詔書であつたことは容易に想像できる。が問題は「人間宣言」などという「愛称」ばかりが通用していることからくる誤謬。進駐軍による原案には「国民性に優越する人間性」といふ当時の実に明朗な精神が書き込まれていたが、その詔書は完成してみれば、通常言われる「神格の否定」人間宣言など二の次で、最も強調されたことは「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス」「国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」と明治帝の五箇条御誓文の精神に立ち返り国づくりに努めるご決意。結局、自らが神であることは否定しても天照大神の子孫であることは否定せず=できず。なぜなら天皇制といふものが神話理論の系譜の上に成立しているからであり、その抽象的な神話理論と天照大神の子孫であるといふ証左が具体的には三種の神器であること。話は「義経」に戻るが後白河法皇がどれだけ権力を握り政略に優れ源平をも愚弄するほどであつても三種の神器が手許にないことだけで法皇とてそれでは策士で終わつてしまふほど。今上天皇陛下におわせられても護憲派のリベラルな陛下だが神事には先帝にもましてご熱心とお聞きするが、それも民主主義やリベラルといつた理念とは全く違う次元でやはり天照大神からの神話の系譜の流れに御自らがおわせられることへの通念なのであろうか。『共産党宣言』読了して伏床。
▼若い頃からずつと平凡社だったか宝島だったのか雑誌に「リリー・フランキー」といふ書き手あり。この人の登場から暫くは「リリー」といふ名から艶っぽい姐サンがオヤジ気取りの文体で、と信じていたが実は本当にオヤジ臭い若者だとわかつた時の驚愕。今日の朝日の書評にこのリリー・フランキーの『東京タワー』といふリリー氏の母の物語について池上冬樹が書いておりリリー・フランキー版「死にたまう母」という言葉が目に留まり母へのオマージュの文学として茂吉の『赤光』、井上靖の『わが母の記』や安岡章太郎の『海辺の光景』を挙げ、死にゆく母をみつめる息子の物語……という文章に「やはりリリー氏はこの域に達したか……」とかなり感慨。だがよく読むと「死にたまう母」だが「深刻な話も笑い話にしてしまう作者だから何度も笑える」「死にいく母をみつめる息子の物語はあるけれど、それに比べると冗漫で、ネジのゆるい語りであるが、でも逆にそのゆるさが風通しをよくし、豊かな猥雑さをとりこんで、ユーモアを光らせ」「情感豊かに、しかも“バカタレな日々”を通して描いた」といふ紹介を読んでリリー氏はやはりリリー氏であるとどこか安堵。それにしても「母の死を恬淡と語りながらも静かに胸にしみいるものにしている」「まぎれもない才能による、まぎれもない傑作だ」とはやはり凄いこと。
▼先週の話になるが香港の汚職贈賄摘発のための廉政公署(ICAC)のナンバー3、政府関係調査部主任のGilbert Chan Yak-Shing氏が十四日に一身上の都合により廉政公署から辞職を表明。十五日で退職。弁護士になるとか。今日の香港社会に最も貢献したマクルホース総督が創設した廉政公署が香港をまさに廉政化してきたのは事実だが、政府汚職等摘発のための独立機関で政府の権限が及ばぬ事が目立ち、例えば財務官であつた梁錦松の自動車税増税公布直前の自家用車購入(これで辞任)、香港警察マル暴幹部警視正暴力団からの売春接待享受で警察側に一切の事前通告ないうちにプレス発表、贈賄摘発のための盗聴など、この組織の存在が煙たい組織が多いのも事実。昨日のSouth China Morning Post紙は今回のGilbert Chan氏の辞任は事実上の更迭で、廉政公署の現在の権力と規模の縮小が北京中央から「自称政治家」行政長官サー・ドナルドに与えられたThree dirty jobsの一つであると指摘。信望のかなり厚いChan氏を辞任に追い込むことでICACの勢いを削ぐこと。3つのやっかいな仕事とは何か、ひとつがこれなら、もう一つは明らかに香港電台(もう一つは何かしら)。だが北京中央がICACを嫌うのはなぜか。指導下にある香港政府の庇護なのか、或いは駐港の中央政府の関連組織が香港での親中派の勢力維持拡大での「作業」上でICACの捜査対象になどなつたら困る、といふ配慮なのか。

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