九月朔日(月)昨晩遅く雷鳴轟き驟雨。週刊読書人にて松本健一、丸山眞男の1945革命説を語るを読む。「天皇主権から人民主権に移るという無血革命」が「あったこととする」のは丸山眞男の仮構どころか当時の東大法学部の=日本の法界の当時の通念であり、松本健一が今さら何故それを強調するのか、それが松本氏らしいといへばそれまでだが。ただ「主権在民という概念は戦後民主主義によって生まれたわけでなく、昭和3年のときの(パリ)不戦条約のとき明確に國軆との対立として出てきている」という発想は確かにパリ不戦条約が「人民の名において」締結されるという文言を有し昭和4年に批准されたことが國軆に大きな楔を打ったのも事実、だが「それ」を「松本健一が述べる」と、どうも色眼鏡で見てしまふのは私だけではあるまひ。松本氏にしれみれば丸山眞男という人の思想形成は戦後の民主主義の産物なのではなく戦前の日本の土壌で培われ形成された思想であることを明確にする意図があるのはわかる、だが、「自由主義者とか民主主義者といった捉え方で、どっちの陣営に属するかのような、「ものさし」でしか丸山さんを捉えなかった」時代は終わったから「その「ものさし」はもうはずせ」って、民主主義者ってのもレッテルなの?、で(笑)、北一輝だってファシズムも革命という捉え方をせねば北一輝は理解できず、と自説に。丸山眞男ご本人がこれ聞いたら腸カタルになるかもしれぬ。床に臥し久々に荷風断腸亭日剰読むが未だに昭和12年春。四更に到る頃、眠りに陥ちたがふと目が覚め眠れず養命酒服すが尚眠れず丑三ツに漸く寝入るが目覚め悪し、学校は新年度、九月一日は毎年、朝の通学時間に交通渋滞など大混乱あり、しかも月曜日で最悪を予想するがそうでもなし。朝イチにて先週末の尿酸値検査の結果尋ねむと医務所に電話。尿酸値は6.5にて正常、ただ今後とも飲食生活には留意せよ、と。安堵。ところで万年筆の話。余は萬年筆を愛用し殊に絶品と評するは伊太利のOmas社の筆。十年来愛用せじ“Arte Italiana”のペン軸に軋み生じZ嬢に頼み太古城にある同社の香港代理店に筆持ち込めば早速無償修理応じ数週間、と。対応に出た青年がこの筆の余の長年の愛用に言及し代理店ですらこの製品に対する愛着と哲学あることも遉がOmasと感銘。それなら94年に香港にて四本のうち一本をば購入せし自動車フェラーリ社記念の限定の筆(日本にてはかなり稀な逸品)、かなり汚れ、これもメインテナンスに出そうか、と一考。Omasひとたび用いればMontblancも実用の筆としては二級品と感じ入る。昼に北角の寿司加藤に参れば今月つまり今日から月曜日定休、と。旧正月の連休除いて働きづめはよくない、せめて週に一日くらい休養。隣の高麗韓国料理なる店に入れば新学期始まった学生で満席。中学生の分際で昼から朝鮮焼肉か、と腹立ったが値段はランチがHK$26、一般でもHK$35で焼肉、キムチなど惣菜、白飯にスープに甘味つき、いったいいくら儲かるのか。先頃、FCC(香港外国人記者倶楽部)の会員申請し批准され夕方に会員証受領に中環はIce House RoadのFCCに参ろうとするとタクシーの運転手に中環で路上に飛降り自殺あり道路渋滞著し、と忠告され灣仔でトラムに搭れば金鐘より専用道奔るトラムは自動車の渋滞横目に中環。FCCへの入会は記者気取りでもなく目的はただ一つゆっくりと酒を飲みたきこと。Mandarin Oriental HotelのChinnery Barとて食堂と化しつつあり、蘭桂坊だの粗呆(Soho)地区だの胡散臭く、老いた輩が閑かに盃傾けるはもはや会員制倶楽部以外にはあるまひ。FCCは十数年前に当時朝日新聞の香港特派員であったT氏に連れられて参ったが最初。事務手続済ませメインバーにて独り(尿酸値正常の祝賀も兼ね)ギネスの生麦酒を一飲。午後六時に照明を暗くするも二段階にて徐々に暗くするは客の目への労り、殊に読書する者には有難き配慮。この時刻にちょっとした「つまみ」が各人に供されるも正統。香港にてこれがあるのはマンダリンのChinnery Bar、某風呂屋など数少なし。ジムに寄り帰宅して焼き鯖で晩飯。昨晩の睡眠不足にてさすがに睡魔に襲われる。大西巨人『神聖喜劇』少し読む。
▼新宿にL君といふ畏友あり。ジェンダーに詳しき人なり。L君に教えられgenderについての産経新聞の産経抄を読む。きっかけは8月18日の文章にて「ジェンダーフリー(性差解消)という名のばかげた風潮は、とどまるところを知らない」ことを危惧し「男らしさ・女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかねない」と結ぶ。ここまでは事実。性差を解消することは近代国家のタテマエの解体に繋がる、だから国家主義を標榜する者は性差解消に執わる。だが産経抄の真骨頂はここからの論理?の飛躍にて、このままでは「日本の伝統や文化も無視されていくことになる」のであり「そのうち“夏らしさ”といった季節感も否定されてしまうだろう」だって(笑)。「あのさぁ」と軽蔑含め反論したくなるが「……らしさ」といふ感覚が乏しくなるは産経の非難する似非平等主義でも戰後民主主義の結果ぢゃなく「夏らしさ」などまずこの人類の進歩の結果として異常気象で先になくなる、って。……とこの産経らしい産経抄だがこれで終わらず8月28日にこの「ジェンダーフリーというばかげた風潮について書いたところ、たくさんの反響をいただいた」そうで「24日を過ぎてから一斉にメールが殺到した」のは「察するに何かの組織や団体があって「けしからんコラムがある。やっつけよ」という指示が出たのかもしれない」わけで反論の「このメール攻勢には自分と少しでも異なる論は封じてしまう圧力、あるいは恫喝のようなものが感じられ」これは「いつかの特定歴史教科書の不採択を要求するファクス攻撃と似ているかもしれない」と産経系列の扶桑社の歴史教科書のことを持ち出すのだが「自分と少しでも異なる論は封じてしまう圧力、あるいは恫喝のようなもの」は産経にとって朝日新聞に象徴される左翼や市民勢力のことなのだろうが「自分と少しでも異なる論は封じてしまう」のは逆からすれば保守反動とて同じこと。また「批判の多くに小欄が同性愛を否定しているとあったが、よく読んでいただきたい。けっして否定なぞしていない、それを「過剰に強調」する風潮を戒めている」のだそうな。で今度は論点がこの同性愛に及び30日の産経抄にて「いまの同性愛者のささやかな運動が、ジェンダーフリーを追求する過激なフェミニズム活動家たちの主張と混同され、困っているという訴え」を同性愛者のの男性から受けて「この訴えには胸にしみるものを感じた」そうな。「フェミニズムが目指しているのは「家族の解体」である。それに対しごく普通の同性愛者が求めているものは、普通の家庭と同じようにパートナー同士が愛し合い、尊敬し合う関係を公に認知してもらいたいということである」そうで、産経抄によれば忌まわしきジェンダーフリーに対して同性愛は家族に通じる愛あり。この男性について「この人はフランスで暮らしたそうだが、欧米では街角で同性愛者が殺される事件が後を絶たない。それに比べ日本は恵まれている。権利だ差別反対だとヒステリックにならないのは日本の社会が寛容だからだ、とこの人は感謝していた」と結ぶ。この産経の主張に対してL君「記者「ジェンダーフリー」論難に事寄せて同性愛を語り、同性愛差別なき我邦社会の寛容なりしを自賛せり。笑止たるべき。古来衆道陰間の盛んなること本朝の美風たりしと雖も、元来産経記者の主張せらるるは男子は男子らしかるべく婦女子の婦女子たる分を弁えるべしてふ所なりしを主義主張を枉げて平素軽侮せし筈の同性愛者までを自己の都合に依りて政論に利用したるは産経記者の品性甚しく陋劣たること悪むに足らざるなし」と。余が思うに、確かに日本に「ある大らかさ」もあろうが、ここ(産経)では日本が性愛についてかなり大らかであったことと人権の混同あり、権利や差別に敏感にならぬのは寛容なのか民度が低いのか……。近代以前の「大らかな性愛」と近代の人権を同じ土俵で語ることの矛盾。ところでこの問題かなり微妙に理解に難しき点あり、それは一瞬「男らしさ・女らしさの徹底と同性愛は矛盾する」ように思えること。だが希臘の昔から明治の旧制学校での硬派、宝塚から近代の軍隊に至るまで、男なり女なりのジェンダーの強調する社会こそがホモフォビアの逆相として同性愛の温床となりし事は事実にてそれ甚だ興味深し。この件につきかなり参考になるL君の知己にてジェンダーに詳しき「いずみちゃん」(戸籍上男性にして性自認は女性、恋愛対象は男性、日常は女性として生活)はリベラルな活動家だが女性解放運動系の人からは「アナタはなぜステレオタイプの女性性に囚われたような格好をしているのか」と攻撃されることしばしば、とか。本人は「政治的な正しさ」ではなく、純粋に個人の嗜好に従った結果というしかなきことは、これも個人の嗜好といふこれは近代以前どころか太古の昔(太古を「たいくー」と読む香港邦人……笑)からの人の性(さが)にて、それと近代の「政治的正しさ」を同じ土俵に載せることも産経と同じ矛盾あり。