四月九日(水)曇。朝八時にマンション出てミニバス乗ると感染者出た棟より偶然か朝早くから運送会社のトラック止まり引越し。肺炎からの避難かマンション封鎖されること恐れての措置か。ふと、もしかすると大切なニュース読んでおらぬのではないかしらとふと心配になり一週間分の朝日新聞に目通し。さしたる記事もなく?安堵。連日4頁のスポーツ記事要らぬし地球防衛家の人々が読めぬ程度の不満。天声人語のインターネットのネタ盗用疑惑にて週刊新潮告訴という記事を笑った程度。昨日に引き続き香港藝術中心にてGodfrey Reggio監督『Naqoyqatsi』看る。人間の行為に基づく戦争の有り樣、そしてそれに対する平和へのメッセージが映像とナイスな音楽にて繰り広げられるが正直言って90分長すぎ。せめて30分の映像に集中したら効果的でなかろうか。続いて北野武監督『Dolls』看る。最初に文楽で曾根崎心中見せられれば結末まで見えてしまふのだが何故敢えてさふしたかといへば曾根崎心中の筋知る者には不要ながら必要なのは当然、心中物知らぬ観衆、具体的にはカンヌの審査員のため。設定と筋ぢたいはかなり好し。結婚まで約束した彼女裏切り逆タマの結婚決意したものの彼女自殺図り未遂にて気がふれたこと結婚式当日に知り彼女の許へと走り放浪の旅続けるカップル(二人で紐につながれ乞食)、30年前の彼女への再会を願う暴力団親分と気がふれたように30年その彼の再來を待ちつづけるその女性、アイドルのおっかけの青年はアイドル顔面損傷にて引退し自らはその偶像を忘れぬため目を傷つけ失明……と三組、気がふれておらぬのは親分とアイドルなのだが極道と芸道に生きる者は中上健次の物語を持ち出すまでもなく異人にて、つまり六人六樣常人に非ず。この異人描いたこの作品、もし中上健次が生きていて脚本にでも參加していたらかなり、のはず。ただ殘念なことはあまりにカンヌの賞狙い露骨にて、いかにもフランス人好きそうな不条理だの幻想だの、と。ただ映画的な技巧として、これまで作ってきた北野世界とは異なるため正直いってその主題に見合うだけの映画としての技巧が滿たされず、でカンヌでは賞はとれず、といふことか。
▼築地H君より。もはや笑い話にするにもレベル低きことながら、またも我ら愛読するw産経新聞からの引用だが、教育基本法改正について改正が不徹底と不滿な新しい歴史教科書をつくる会の事務局長のコメントは「教育基本法改正案は、いまだ憲法を前提にしていることが遺憾」と。「あーた、法治国家において憲法を前提としない法律というのは存在できないのですが……」と、確かにH君ぢゃなくてもそう思うよね。こういう人たちが「公民」の教科書までつくろうとするんだから、無知というのは強いもの。