富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五月十五日(火)全く困ったもの、九龍側のジムが突然の閉鎖、昨日そこで遭いしN氏が夕方電話をくれジムは今日をもって突然の閉鎖、賃貸せしロッカーより私物は今日中に運び出せと無慈悲な沙汰。すわ倒産で差し押さえかと慌てジムへと寄れば、新規に移転開業のため数ヶ月の閉鎖と申せ、怪しげ、香港島側のジムは依然存続のようで、N氏によればジム側は内装改修を求めたもののlandlord側はそれに応じず交渉決裂し突然の賃貸契約のご破算、ロッカーの荷物を纏めジムを去るが、九龍公園を見下ろす快適な屋上あり日光浴の日々をmissed。ここ数日、村松友視水原弘を書いた『黒い花びら』を読んでいるのだが、本としてはどうも文体からし村松と思えず(もともと編集者としては知らぬが作家としてはあまり好きではないのだが)、それにしても「黒い花びら」が第1回大賞受賞を受賞した昭和34年、その年の歌は生まれる以前でもペギー葉山「南国土佐を後にして」、三橋美智也「古城」、フランク永井松尾和子「東京ナイトクラブ」にザ・ピーナッツ「可愛い花」と知っているのに、何故か「黒い花びら」は耳に残っておらず、昭和42年の「君こそわが命」も当時はもう熱心な歌謡曲ファンで菅原洋一「知りたくないの」、ひばり「真っ赤な太陽」、裕次郎「夜霧よ」、相良と似てるが佐良直美「世界は二人のために」と全部歌えたのに、何故かここでも「君こそわが命」を覚えていないのだ。マネージャの長良氏が語る、飲みながらみんな酔って勝新太郎が「リンゴ追分」、水原弘が「さのさ」でひばりが「座頭市」を歌うなど、想像しただけでニンマリしてしまう奇跡のような場面。
I氏と数ヶ月前にお遍路の話となり丁度手許にあった月刊『太陽』をお貸しし、氏は遍路の旅路で亡くなる、それをなんと云うか思い出せずと、余の浅識はそれ知らず、数ヶ月、氏はそれを捨て遍路と云うことを覚え、自らが遍路の旅路に亡くなれば金剛杖を卒塔婆とし白の装束を経帷子として、故郷への報せは不要、その土地の風習で葬ってくれ、とその気持ちを教えられ、一瞬、悲しみも枯野に遺し捨て遍路、と詠むが、晩くになって調べてみれば、それは捨て手形を懷に「萬一病死等仕候ハバ国州之御作法ニ御取置被成国元江御届ケ及不申候仍而一札如件」と途を歩んだそうで、虚子の「道の辺に阿波の遍路の墓あわれ」という句を得て、もう悲しみは金輪際無用と思い
喜びも枯野に遺し捨て遍路
と詠み直す。それにしてもこの遍路が空海の軌跡とは知らず無知。