富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

嚴家祺「天安門広場の精神」

農暦五月初三。薄曇。香港の暑さもだが、この湿気が酷い。昨晩は帰省より戻り珍しく、その日のうちに旅荷片付けもせず寝てしまつたので、それの整理。

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(左)善光寺八幡屋礒五郎の唐辛子キーホルダーに続けて「胡椒といえば」でGABANの胡椒キーホルダーを入手。料理店の厨房でGABANはどれほど使はれてゐるのかしら。

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鳩居堂の「雪月花」は「清月」「紅桜」と「深雪」の三揃ひで箱入りだが箱はあるので今回はバラ買ひ……この画像見て「並べる時も左から清月、紅桜、深雪の順」と思つた方はかなりの鳩居人である。大阪・玉和堂の「光陰」は奈良・明日香の岡本寺からのいたゞきもの。

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日本は来年の東京五輪で賑はひ。東京ではジャケットに東京2020のバッチつけた関係のオジサン多し。どれだけのカネが動くのかしら。といふわけで(時節柄の五輪ネタだが)実家で母が金庫整理してゐて先考収集の昭和39年の東京五輪で専売公社が出したショートピースの五輪記念パッケージを見つける。

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几帳面だつた先考らしくきちんと保管。調べてみると、この東京大会の競技種目は20で、20競技のラベルが出てゐたわけで父は全て揃へてゐた。10本入りのショートピースだから200本で、この収集のため5.6gのタールと460mgのニコチンを摂取とは立派。また当時の東海道新幹線開通や戦没者慰霊、東海道線電化、浅草観音本堂落成、マナスル登頂といつた記念の特別パッケージも14種あり(他に金鵄もあり)。

蘋果日報(2019年6月1日)に嚴家祺先生「天安門広場の精神」あり。嚴家祺(1942〜)は中共中国社会科学院政治学研究所首任所长から1986年に趙紫陽首相の政治改革办公室で改革開放政策に従事したが1989年の天安門事件で黄雀作戦で香港に密航、フランスに渡り、その後米国で旅居の身。以下、私訳。

「六四」天安門事件からすでに30年が過ぎ、六四はこの中国の大地で確かに発生したのだが、六四は今もって「反革命暴乱」とされ真相はわからぬままで、それゆえ「六四」はまだ歴史となっていない。六四から30年、人々がずっと問いかけてきたことは、1989年の5月20日に戒厳発令となり、それでもなぜ多くの学生たちが天安門広場を離れなかったか?ということだ。もし学生たちが広場から退散していたら、あのような大きな殺戮の状況は免れたことだろう。
事実上、言論の自由もない広大な砂漠のなかで天安門広場は中国唯一の緑地(オアシス)だった。1989年、人々は広場をはなれず、学生たちは『人民日報』が4月26日の社説で学生運動を「動乱」断定したことの訂正を求め、言論の自由という空気を吸うために広場には次々と人々が集まった。1949年以降、中国では2度の天安門事件が発生している。私はこの2度とも大規模な鎮圧発生の一、二時間前に天安門広場を離れている、歴史の証人である。1976年3月19日、天安門広場の人民永久記念碑の前に周恩来追悼の花輪が据えられたたが、これは北京市朝陽区の牛坊小学校が献花したものだった。この日から4月4日の午後9時すぎまで私は毎日広場に行き、晩9時になっても広場の街灯の明かりのしたで記念碑にある『告別』の詩句を書き写した、その火は広場に10時間もいたことになる。1989年は天安門広場に1976年に比べても、より多くの人がいて、私は4月16日から6月3日午後10時まで、「天安門民主大学」の開設セレモニーに始まり十数回そこで広場の状況を眺め、人々の議論に耳を傾けた。
1949年以来、2度「天安門事件」が発生した広場……そこは十数万の盟友たちが集まり守った、その広場だけが全く規制のない言論の自由があり安全な場所だったのだが、その広場を除けば中国の広大な国土に言論の自由はなかった。(それに対して)この30年、香港の報道の自由はすでに北京の度重なる干渉と介入を受けながらもビクトリア公園で天安門事件追悼の集会が開かれ「天安門事件の精神」が、そこで主張し続けられている。
1989年の天安門事件のあと、私はイタリアのPatricia Galliが出版した天安門をテーマにした写真集に『天安門広場の精神』と題した序文を寄せた。
「1949年まで天安門前は小さな広場しかなかった。毛澤東と彼が率いる人々が彼らが手にした無制限の権力を誇示するため、天安門の前に威力的で世界で最も広大な広場を建造した。天安門前を東と西に長安街が走るこの広場は、数百万人が集まって盛大に慶典の開催ができる。そこに、毛沢東も鄧小平も予期しなかったことだが、人々が何かの発端、原因で自発的に集まり、新聞やラジオ、テレビを通さずとも、広場で直接意見交換することができた。天安門広場では、人々は自分が一人だと孤独を感じず、広場こそ人民、人民こと広場なのだ。」
1976年と1989年の天安門事件は、周恩来胡耀邦を追悼する自発的な民衆運動だった。周恩来の晩年、毛沢東周恩来に苛酷に接したため、人々が周恩来を追悼することは毛沢東自信に対する抵抗だと見てとった。鄧小平が胡耀邦を総書記から更迭したことで、1989年は民衆の胡耀邦追悼を鄧小平は自分への抗議だと感じとった。いずれの天安門事件も大規模な鎮圧が終焉だった。それでも(1976年の)第一次鎮圧では警察と労働者の民兵ら数百人が組織され記念碑付近で鎮圧により流血の事態が発生したが、それでも当日、一人の死者もなかった。(1989年の)第二次鎮圧では鄧小平は数十万の軍隊を動かし機関銃とタンクで、平和的な抗議を行なっていた民衆を大規模に殺戮し多くの死者は千万の数となった。問題は、軍隊が天安門広場に向かい進攻し大規模な殺戮がすでに復興門で発生していた時、天安門広場にはまだ何万、何十万という人々が集まっており、私も天安門民主大学の開講式典で講演しており何も身の危険も感じていなかった。学生が「政治には妥協が必要」とわからないわけではなく、何十万の群衆は抑制の言葉も聞こうとしなかったが、自由という空気を吸っているとき、危険を感じることは微塵もなく誰も大規模な虐殺があるとは思ってもみなかったのだ。
二度の天安門事件がもたらした結果の違いは今なら明らかだ。第一時天安門事件では3年後に真相が明らかにされ中国政府当局も、これは反革命運動ではなく周恩来総理追悼の民主運動だと認めた。真相が解明され鄧小平が復活し中国は改革開放の道を走り始めた。
六四(第二次天安門事件)から30年、中国の大地では言論や報道の自由が抹殺され「六四」は反革命暴乱とされており、そうした状況は中国に四つの大きな変化をもたらした。
天安門事件の大規模な殺戮で、共産党一党独裁が強化されたと同時に、中国の人民に共産主義イデオロギー理念の放棄を導いたこと。
天安門事件のあと、中国の改革開放は(その理念と)反対の方向に進み権力と資金にあふれた資本主義が全てを圧倒し、公務員は腐敗し、社会の分化が進み、1982年憲法国家元首の任期継続は2期まで」と規定されていた条項を2018年に削除したことで、中国の政治制度は何千年にわたり伝統的な「帝政」に変わろうとしている。中国経済の大きな発展は何億の、農民や工場労働者の血と汗の成果で、それには天安門事件の犠牲者も、そこで子を亡くした「天安門の母」たちの血涙もあるのだ。
③ 中国社会は大きな変化があり、拝金主義が蔓延し、富や豪奢ばかりか迷信や虚栄心えの飽くなき追求があり、この災いが氾濫するなか正義は語られず、問題視もされないまま社会が混乱するばかり。
天安門事件の大規模殺戮の結果、共産党は国民の信頼を失っただけでなく、人々は一党独裁政権を廃止して民主主義を実行し、中国の政治制度の種子を改良していかないと心のなかで確信するようになった。
天安門事件30周年の記念、追悼で人々が広く求める基本的なことは30年前の1989年の天安門での学生運動が4月26日の人民日報社説で「学生運動は動乱である」と主張されたことの撤回を求めるものであり、その要求は30年の間、一度も放棄されていない。そして6月4日の大規模殺戮があったことでもう一つの要求が、それに加わった。それは天安門事件の真相が公開されることで「中国の大地で正式に「天安門事件は暴乱ではなく大規模な殺戮だった」ということを宣言すること」なのだ。

六四

農暦五月初二。晴。陽暦は六月四日で天安門事件30周年。李怡先生が蘋果日報(五月廿三日)の連載に書かれた「香港已經徹底變了樣」これが拙訳で本日のWeb論座に掲載されてゐる。ぜひご一読あれ。

いつも実家から当日夜の成田便で香港に戻るときは昼に母と驛ビルでランチとなり三崎丸といふ寿司屋だが今回は築地でさんざん寿司頬張つたので今日は「和幸」でトンカツ。母と別れスタバで一服して昼過ぎの特急「ひたち」で上野へ。乗車すると母からLINEで電話あり「もう乗っちゃったわね?」と。何か忘れ物でもしたか?と焦る。驛ビルで母が中学の恩師K先生の奥様と遭つたさうでアタシは奥様にも懇意で二人で駅の改札口でアタシが来るのを待つてくれてゐたのだといふ。水戸はJR驛と京成デパート、それに郊外のAeonにいけば必ず誰か知人に遭ふやう。水戸からなら成田空港に向かふのなら直通バスがあり便利なのだが上野からスカイライナーの時速160kmを体験したく。

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上野で山手線で日暮里に往けば京成線への乗換便利だが王道で上野駅不忍口を出て西郷さんの階段下から京成上野まで歩き始発に乗車。

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東京驛から成田エクスプレスに乗るより京成線の方が高架とはいへ下町感あり。印旛日本医大を過ぎてからの時速160kmは私鉄最速だが乗つてゐて新幹線に比べ風圧?感じられる。17:20が出発で30分前搭乗なら空港で1時間半くらゐは時間潰せるかと思つたのだが15時にはチェックインもFast Trackでの出境も済んでしまひ搭乗予定時刻は17:50だといはれる。香港からの往路のフライトが香港の天候不良で遅れた由。搭乗まで3時間近くあり。ANAのラウンジで嚴家祺博士が蘋果日報(2019年6月1日)に寄稿された「天安門広場の精神」を訳す。

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ラウンヂでは夕方のサービスで板前職人が出てのにぎり寿司のお振舞ひあり。ハイボールや日本酒飲む。NH811便。搭乗前に名前呼ばれ「あらオーバーブッキングでCクラスにアップグレード?」と思つたらさにあらず、預け荷物の中にライターあり、と。確かに化粧品ポーチの中に線香点けたり糸屑を焼くのに100円ライター忍ばせてゐたが今までフライトでこれをチェックされたことなど10年以上皆無で気にせずにゐた。アタシの預けトランクはゲートまで運ばれてきてをり、すでに預けてゐるのでアタシが荷物に触れてはいけないらしく職員が開けてアタシがいふまゝにライター取り出す。お手数おかけしました。エコノミー席は2ー3ー2配列。

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25Hが私、24Kもすでに客あり。暫くして24Hと25Kに男女のカップルが来て24Hに彼、25Kに彼女が座らうとするから「席、変はらうか?」と言つてあげたら25Kの彼女曰く「ありがとう、でもこっちの2人がカップルだから」と24Hと24Kの男子2人指してニッコリ……なるほど。フライトは満席近かつたが野暮なツアー客やにぎやかな社中もおらず異常なほど静寂。フライトアテンダントもこれはかなり楽なはず。機内で新井一二三『台湾物語』(筑摩選書)読む。

台湾物語: 「麗しの島」の過去・現在・未来 (筑摩選書)
 

一二三さんがもう20年近く接する台湾である、「満を持して」上梓の台湾本で台湾を識るためのテキストとして風土、政治、言語、宗教から建物、地名と人名、中国との関係そして映画まで、実に見事に台湾の全てを台湾初心者にでもわかりやすく、かつ一端の台湾好きでも知らないことまで盛りたくさん。台湾人が読んでも台湾がもっと好きになるくらい一二三さんの台湾への理解と愛情に溢れた一冊。アタシも観光客も多い古い町並みの迪化街(旧・永楽町)の「迪化」がウルムチ新疆ウイグル自治区首府)の旧漢字名だつたとは知らず。確かに台北を中国全土に見立て大陸地名を置けば市内西北のここがウルムチといはれゝば、その通り。だが台湾にしてみれば大稻埕の古くからの商業地でウルムチといはれても「一昨日来やがれ!」だらうが。22時すぎ香港到着。預け荷物はPriorityだつたはずが搭乗前の「ライター騒ぎ」で最後に普通の荷物と一緒に積み込まれかなり最後にやつと出てくる。香港島のビクトリア公園横をタクシーで通り抜ける。六四追悼集会はすでに終ひかしら。

主催者側発表で18万人参加は2014年の雨傘運動以来の多数。警察発表は3.7万人で3年ぶりの参加者数増。天安門事件の総括、中共一党独裁終結といふ支聯会のこれまでの主張に加へ「反送中」中共への犯人引渡しへの反発多し。

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水戸その②

農暦五月初一。晴。明日(陽暦六月四日)は天安門事件から30周年。10年前、李怡先生が書かれた天安門事件から20年の記事(蘋果日報)を朝日新聞に翻訳して載せたことあり。今回も蘋果日報の李怡連載「世道人生」から翻訳したが自分なりに六四から30年、香港での動きも翌年から見てきたので自分なりにそれをまとめてみる。これが今日のWeb論座に掲載される。

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午前中、水戸市役所に行き昼に京成デパートのレストラン街で母とカキフライでお昼。そのあとデパート内のサザコーヒー。アタシの帰省に旧知の方々集まつてくれての午後のひととき。

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子どもの頃の記憶が平地となつてゐた。夕方昨日に続きスーパー銭湯。晩に母と妹と軽く外食のあと旧友と飲む予定が月曜日で行くつもりだつた韓国料理屋は休みで近くの蕎麦屋は本日売り切れで終ひ。時間切れで旧友の待つ「Seek」といふ食肆へ。バーAに飲み半夜三更に帰宅。

水戸その①

農暦四月晦日。晴。日曜日。母と常磐線で土浦へ。普通列車グリーン車で母と四方山話。何十年ぶりの土浦は駅前に大きな商業公共施設のビルが建ち駅舎も改築で開業したところ。駅前の大正五年創業の蒲焼きの老舗・小松屋は昔は外売りだけだつたが駅前の再開発で大通りの向かひ側に移転して今は店内でも食事出来、早めの昼餉。


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国産天然のウナギは貴重。昭和40年頃の商店街地図懐かしく眺める。


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土浦は霞ヶ浦に旧海軍航空隊があり軍人相手で料亭も多く桜町の廓街は戦後、風俗のメッカで今もソープランド多し。食後、駅から円タクで市郊外の蓮河原。コーヒーの店・ブラジルへ。

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かつては市街の簡易裁判所近く、裏通の琴平通りにあつた?昭和44年だかに開業の珈琲店。平成の半ばに今のところに移られた由。市街のときは五坪ほどのカウンターだけの小さな店だつたが今の店に当時のメニュー看板などそのまゝで珈琲豆の容器まで同じ。

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マスターは今年、米寿でも矍鑠としたもので喋り上手。容姿、仕草が大成駒のやう。昔語り。このブラジルにアタシを連れて来てくれた方も、いつもこゝに一緒に来た友人も共に鬼籍に入る。珈琲好きの母にはぜひこゝの珈琲を賞味したゞきたいと思つてゐたが母もとても美味しいといふ。銀座らんぶるの琺瑯製のポットは、この店でアタシが二十歳になる前に譲つていたゞいたもの。ランブル特製のポットは100か150個だかの限定で、その後は金属製になつたので琺瑯のものがどれだけ貴重か。かうした珈琲文化が後継なきこと寂しいかぎり。円タク呼んでもらひ土浦駅に戻り特急「ときわ」で水戸に戻る。母がかつて隣宅だつたI氏を郊外の高齢者施設に見舞ふので同行。卒寿で頭脳明晰。施設では日曜夕方で集会場所で懐メロのカラオケ大会中。部屋にまで煩い大音量はアタシなら難儀。自宅に母を送り駅南のファミレスでH君と旧交温める。スーパー銭湯に浸かり自宅で夕食。

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このマスクメロン、四分の一もがっつり頬張つていゝのかと思ふが1個で1,000円もしないのだといふ。睡魔に襲はれ早寝。

東京→湯河原→水戸

農暦四月廿八日。晴。大宗旅館退房。女将さんが老齢のご主人にアタシとの話をされたさうで宿を発つときにご挨拶を受ける。アタシの家も母方は曽祖父が日本橋の魚屋で震災で焼け出され四谷三栄町に移り、と玄関の上がり框で暫し昔語り。ご亭主は昔のことを思ひ出し、かうして話すと(悲しいのではなく)話出来ることがありがたいと咽ばれる。宿は素泊まり、場外に寄ると観光客芋を洗ふが如しで通り抜けも能はず。

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通りで客引きしてゐた海鮮丼屋に誘なはれ鮪丼を朝餉に。有楽町まで出るが土曜の朝何もすることなし。香港の「添好運」に長蛇の列。


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メニュー見ると香港より高くない、といふか下手したら安い?のではないかしら(香港で添好運入つたことないのだが)。有楽町→東京は一駅だが東京駅こそ土曜朝の混雑想像しただけでぞっとして山手線の外回りに乗る。品川→渋谷→新宿→池袋→上野と東都一周小一時間。昼過ぎの「こだま」で小田原。

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小田急線で来られたH嬢と一緒に東海道線相模湾の青海を愛でつ湯河原。湯河原にお住まひのM氏が鉄道駅に自動車で迎へに来てくださる。湯河原の温泉郷に向かふ途中、五所神社から北に上つた海一望の高台にM氏邸あり。相模湾の魚、自家農園の野菜でもてなしを受ける。


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午後五時過ぎの東海道線で小田原、新幹線で東京。常磐線の行き先で「成田」に違和感あり。

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常磐線特急で水戸に還る。駅に母と妹が来てくれてタクシーで旧・藤坂町の「まいど」なるおでん供す食肆へ。


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酒は地元の「一品」をなみ/\と。旬のカツオの刺身。薄味のおでん。帰宅。宅配で届いた書籍等整理。

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東都その② 築地

農暦四月廿七日。晴。朝イチで某ラジオでコメント仕事一つ済ませ書き物少し。鳥居坂旅寓退房。麻布十番から大江戸線築地市場。築地川も埋立てられて久しく、それでも道路の高低差で川の土手がわかるところ、門前跡から旧・小田原町に入れば空襲なき土地ゆゑ未だに仕舞た屋、長屋も少なからず。


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大宗旅館。今晩の一泊で今は荷物だけ置かせてもらふつもりが女将さんに二階に案内され今日は他の客もないので二部屋のうち好きな方お使ひくださいといふので折角なので広い方の部屋選ぶ。


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あとで聞くと、この部屋が先代夫婦の寝室だつたさう。元々は日本橋の魚河岸で魚扱つてゐたが震災で焼け出され魚河岸が築地に移つたため、このお家も越して来たのださうだが昭和2年にこれだけの隅々の意匠に迄凝つた家屋を普請されたのだから当時、相当な商売されてゐたのでせう。夜になつて聞いた女将さんの話では昭和38年にこの家に嫁いださうだが当時は旦那の両親、兄弟とそれに店の番頭にも部屋宛はれ住込みの若衆まで、この家に同居だつたといふ。それが築地での商売閉められ家族も減つたことで折角の普請の建物なので二階を旅館にされたもの。場外まで還る。場外といつても肝心の市場が豊洲に移つてしまつたのだから市場の内も外もないが「場外」は未だに素人客溢れ、外国人が8割。中国人が多さうだが西洋人がこんなに目立つとは驚く。

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それでもトイレのマナー表示が中文、しかも簡体字だけなのが何とも。築地といへばで久々の再会でT君に誘なわれ浜茂鮨。

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このにぎりがHKD100なのである。賑はう路地の店舗の二階で、さすがにこゝまでは観光客上がつて来ず。食後に喫茶マコ。


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T君も久々ださうで「まだやつてゐるかな」と狭い通路の階段上がると女将不在で若い男性が店番されてゐる。T君好物の「スタミナジュース」頼むと、それは今はやつてゐないとのこと、壁に今年3月だかの日刊スポーツの記事あり、すでに女将、御年九十余は相変はらずお元気だが昭和36年創業でさすがに60年近い年月に引退決意され喫茶マコも廃業となるところ喫茶マコの灯を消したくないと後継の経営の仕組み作られ再開なのだといふ。T君と静かな喫茶で情報交換。T君仕事に戻りアタシは残つて少し書き物。日比谷線都営三田線で神保町。こゝも久々。地下鉄から地上に出るとカレーのにほひ。

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まずは田村書店。ロッパ日記4冊揃、百閒全集……安すぎ、でも買つちやいけない。三茶書房へ。

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いろ/\読みたい本もあるなか「今日はこれだけ」と『ユリイカ』1988年の増刊「大友克洋」買つたらご店主に「帽子が自然にお似合いですね」と言はれ、何故か入江侍従長の話に至り(神保町は帽子かぶる紳士少なからず、その中で「帽子が似あふ」と褒められるとはこそばゆいと恐縮だつたが帽子の話となり英国人も東京に来ると今でも帽子かぶる男性が多く興味深いさうでといふ話をして「日本人と洋装」といへば、それにしても女性皇族が儀式の時に並ぶ、あの揃ひのドレスと礼式の帽子はどうも似あはない、男性のタキシードなどはまだマシだが、それにしても先帝(昭和)も背後に入江侍従長が立つとあちらのほうが失礼ながら威光があつた……といふ話に至つたこと)ご店主に私が日記も直筆の原稿も持つてゐると言つたら、店主「相政さんから若いじぶんに直接頂戴した」という書を見せてゐたゞく。楼上のご自宅に飾られてゐるもので「客にお見せしたのは初めて」とださうで恐縮至極。「もう、かういふ話をわかられるお客さんも少なくなつて、かういふ話ができるのが嬉しい」とご店主。岩波書店アネックスビルの泰川堂書店へ。日本地形社のコンサイス都地図(昭和15年)入手。小学生の頃に父愛用の昭和33年版借用して紛失してしまひ、ずっと気になつてゐたもの。お会計のとき泰川堂書店の女将に一言「マフラー似合うね!」と言われる。何ともこの気っ風が江戸の如し。

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銀座に戻り夜の会合まで数寄屋橋の路地二階のバーに飲む。夜の会食はまた築地の予定だつたがお相手の一人が銀座にゐるとわかり「さんぼあ」でハイボール飲んでから築地へ。すし大本館に飰す。

東都その① 銀座

農暦四月廿六日。晴。深夜25時に香港発で二時間半程うつらうつらしてゐる内に朝食サービスに起こされ朝六時に羽田着。京急で大門、大江戸線で六本木。六本木の交差点から「東洋英和」の腕章つけた方が児童生徒の通学に安全指導で時節柄、教職員も大変だ、と思つたら「父の会」で保護者が出勤前に六本木から鳥居坂まで20mおきくらゐに。

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鳥居坂の旅寓。さすがに朝七時半ではさすがにチェックインできずロビーで荷物整理して、トイレで洗面、着替え、ロビーのライティングデスクで書き物。ここのロビーは、とんでもなく高名な経済学者先生が理論的サポートする某政権の財政政策についてインタビュー受けていたり、某旧宮家のあれこれとか、さういふ場所。麻布十番から南北線で後楽園、春日から大江戸線に乗り換へ上野御徒町へ。この行程、歩く距離長く失敗。麻布十番から大江戸線で大門、浜松町から国電御徒町に素直に出るべき(覚へ書き)。アメ横で白山眼鏡店に香港で誂への眼鏡持参で掛け具合ひの調整してもらはうと。十一時半の開店で少し時間持て余し湯島の方へ少し歩いて甘味「みつばち」へ。さすがに昼前で口開けの客。みつばちといへば元祖小倉アイスだがアタシは豆かん

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白山に戻り、スタッフは私が眼鏡かけ耳に当たる部分に触診のやうに手を当てただけで、眼鏡の見事な調整を受ける。

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銀座線で銀座。鳩居堂。菊水。伊東屋伊東屋は店舗改築で基本文具は一本裏道の別館に移つて、こちらは初めて。赤

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青色鉛筆と色鉛筆専用削り購入。さすが伊東屋、店員の説明が鉛筆削りの刃が材質から貝印の何番か迄。某氏と再会。「ざくろ」に誘はれ昼餉ご馳走になる。壹眞珈琲店に移りいろ/\貴重な話聞く。無印の新店舗などで時間潰しタニザワ鞄店。ちょうどタニザワの鞄下げてゐたので丁重に接せられて恐縮。もう10年前に廃番となつた小型ダレス鞄で「丁寧にお使ひいたゞいて」と喜ばれる。銀座場外近くのドトールで書き物。

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某両氏との会食でイタリアンバールに旧交温める。東京の疎かつたいろ/\話を聞く。まだ二更に入るころで睡眠不足で眠くもあるが銀座線、赤坂見附乗り換へで御苑。

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銀座線で初めて(40編成中2編成だけしかない)昭和レトロモダンの特別編成車両に乗れる。陰湿だつた御苑の地下鉄站も大規模な改修中。靖国通り奥の知己の酒場に往つたらママが扁桃腺腫らして休業と張り紙あり。二度ほど飲んだことのある台湾系の酒場でビール一杯。舞踊稽古帰りの久が原T君と酒場Vで再会。T君とアタシぢゃほとんど志村&柄本の芸者コントの如きべっしゃりで口から生まれてきたやうなバーの娘らも多少ドン引きの感あり。もう少し飲むといふT君と別れたところ、その酒場で早番の上海娘が三丁目(旧赤線)の「龍の巣」でサラダ食べて帰るといふので、それに誘はれ夜食食べ鳥居坂旅寓に還る。半夜三更に東京タワーの電飾煌々と夜空に。f:id:fookpaktsuen:20190531153220j:image