富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

嚴家祺「天安門広場の精神」

農暦五月初三。薄曇。香港の暑さもだが、この湿気が酷い。昨晩は帰省より戻り珍しく、その日のうちに旅荷片付けもせず寝てしまつたので、それの整理。

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(左)善光寺八幡屋礒五郎の唐辛子キーホルダーに続けて「胡椒といえば」でGABANの胡椒キーホルダーを入手。料理店の厨房でGABANはどれほど使はれてゐるのかしら。

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鳩居堂の「雪月花」は「清月」「紅桜」と「深雪」の三揃ひで箱入りだが箱はあるので今回はバラ買ひ……この画像見て「並べる時も左から清月、紅桜、深雪の順」と思つた方はかなりの鳩居人である。大阪・玉和堂の「光陰」は奈良・明日香の岡本寺からのいたゞきもの。

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日本は来年の東京五輪で賑はひ。東京ではジャケットに東京2020のバッチつけた関係のオジサン多し。どれだけのカネが動くのかしら。といふわけで(時節柄の五輪ネタだが)実家で母が金庫整理してゐて先考収集の昭和39年の東京五輪で専売公社が出したショートピースの五輪記念パッケージを見つける。

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几帳面だつた先考らしくきちんと保管。調べてみると、この東京大会の競技種目は20で、20競技のラベルが出てゐたわけで父は全て揃へてゐた。10本入りのショートピースだから200本で、この収集のため5.6gのタールと460mgのニコチンを摂取とは立派。また当時の東海道新幹線開通や戦没者慰霊、東海道線電化、浅草観音本堂落成、マナスル登頂といつた記念の特別パッケージも14種あり(他に金鵄もあり)。

蘋果日報(2019年6月1日)に嚴家祺先生「天安門広場の精神」あり。嚴家祺(1942〜)は中共中国社会科学院政治学研究所首任所长から1986年に趙紫陽首相の政治改革办公室で改革開放政策に従事したが1989年の天安門事件で黄雀作戦で香港に密航、フランスに渡り、その後米国で旅居の身。以下、私訳。

「六四」天安門事件からすでに30年が過ぎ、六四はこの中国の大地で確かに発生したのだが、六四は今もって「反革命暴乱」とされ真相はわからぬままで、それゆえ「六四」はまだ歴史となっていない。六四から30年、人々がずっと問いかけてきたことは、1989年の5月20日に戒厳発令となり、それでもなぜ多くの学生たちが天安門広場を離れなかったか?ということだ。もし学生たちが広場から退散していたら、あのような大きな殺戮の状況は免れたことだろう。
事実上、言論の自由もない広大な砂漠のなかで天安門広場は中国唯一の緑地(オアシス)だった。1989年、人々は広場をはなれず、学生たちは『人民日報』が4月26日の社説で学生運動を「動乱」断定したことの訂正を求め、言論の自由という空気を吸うために広場には次々と人々が集まった。1949年以降、中国では2度の天安門事件が発生している。私はこの2度とも大規模な鎮圧発生の一、二時間前に天安門広場を離れている、歴史の証人である。1976年3月19日、天安門広場の人民永久記念碑の前に周恩来追悼の花輪が据えられたたが、これは北京市朝陽区の牛坊小学校が献花したものだった。この日から4月4日の午後9時すぎまで私は毎日広場に行き、晩9時になっても広場の街灯の明かりのしたで記念碑にある『告別』の詩句を書き写した、その火は広場に10時間もいたことになる。1989年は天安門広場に1976年に比べても、より多くの人がいて、私は4月16日から6月3日午後10時まで、「天安門民主大学」の開設セレモニーに始まり十数回そこで広場の状況を眺め、人々の議論に耳を傾けた。
1949年以来、2度「天安門事件」が発生した広場……そこは十数万の盟友たちが集まり守った、その広場だけが全く規制のない言論の自由があり安全な場所だったのだが、その広場を除けば中国の広大な国土に言論の自由はなかった。(それに対して)この30年、香港の報道の自由はすでに北京の度重なる干渉と介入を受けながらもビクトリア公園で天安門事件追悼の集会が開かれ「天安門事件の精神」が、そこで主張し続けられている。
1989年の天安門事件のあと、私はイタリアのPatricia Galliが出版した天安門をテーマにした写真集に『天安門広場の精神』と題した序文を寄せた。
「1949年まで天安門前は小さな広場しかなかった。毛澤東と彼が率いる人々が彼らが手にした無制限の権力を誇示するため、天安門の前に威力的で世界で最も広大な広場を建造した。天安門前を東と西に長安街が走るこの広場は、数百万人が集まって盛大に慶典の開催ができる。そこに、毛沢東も鄧小平も予期しなかったことだが、人々が何かの発端、原因で自発的に集まり、新聞やラジオ、テレビを通さずとも、広場で直接意見交換することができた。天安門広場では、人々は自分が一人だと孤独を感じず、広場こそ人民、人民こと広場なのだ。」
1976年と1989年の天安門事件は、周恩来胡耀邦を追悼する自発的な民衆運動だった。周恩来の晩年、毛沢東周恩来に苛酷に接したため、人々が周恩来を追悼することは毛沢東自信に対する抵抗だと見てとった。鄧小平が胡耀邦を総書記から更迭したことで、1989年は民衆の胡耀邦追悼を鄧小平は自分への抗議だと感じとった。いずれの天安門事件も大規模な鎮圧が終焉だった。それでも(1976年の)第一次鎮圧では警察と労働者の民兵ら数百人が組織され記念碑付近で鎮圧により流血の事態が発生したが、それでも当日、一人の死者もなかった。(1989年の)第二次鎮圧では鄧小平は数十万の軍隊を動かし機関銃とタンクで、平和的な抗議を行なっていた民衆を大規模に殺戮し多くの死者は千万の数となった。問題は、軍隊が天安門広場に向かい進攻し大規模な殺戮がすでに復興門で発生していた時、天安門広場にはまだ何万、何十万という人々が集まっており、私も天安門民主大学の開講式典で講演しており何も身の危険も感じていなかった。学生が「政治には妥協が必要」とわからないわけではなく、何十万の群衆は抑制の言葉も聞こうとしなかったが、自由という空気を吸っているとき、危険を感じることは微塵もなく誰も大規模な虐殺があるとは思ってもみなかったのだ。
二度の天安門事件がもたらした結果の違いは今なら明らかだ。第一時天安門事件では3年後に真相が明らかにされ中国政府当局も、これは反革命運動ではなく周恩来総理追悼の民主運動だと認めた。真相が解明され鄧小平が復活し中国は改革開放の道を走り始めた。
六四(第二次天安門事件)から30年、中国の大地では言論や報道の自由が抹殺され「六四」は反革命暴乱とされており、そうした状況は中国に四つの大きな変化をもたらした。
天安門事件の大規模な殺戮で、共産党一党独裁が強化されたと同時に、中国の人民に共産主義イデオロギー理念の放棄を導いたこと。
天安門事件のあと、中国の改革開放は(その理念と)反対の方向に進み権力と資金にあふれた資本主義が全てを圧倒し、公務員は腐敗し、社会の分化が進み、1982年憲法国家元首の任期継続は2期まで」と規定されていた条項を2018年に削除したことで、中国の政治制度は何千年にわたり伝統的な「帝政」に変わろうとしている。中国経済の大きな発展は何億の、農民や工場労働者の血と汗の成果で、それには天安門事件の犠牲者も、そこで子を亡くした「天安門の母」たちの血涙もあるのだ。
③ 中国社会は大きな変化があり、拝金主義が蔓延し、富や豪奢ばかりか迷信や虚栄心えの飽くなき追求があり、この災いが氾濫するなか正義は語られず、問題視もされないまま社会が混乱するばかり。
天安門事件の大規模殺戮の結果、共産党は国民の信頼を失っただけでなく、人々は一党独裁政権を廃止して民主主義を実行し、中国の政治制度の種子を改良していかないと心のなかで確信するようになった。
天安門事件30周年の記念、追悼で人々が広く求める基本的なことは30年前の1989年の天安門での学生運動が4月26日の人民日報社説で「学生運動は動乱である」と主張されたことの撤回を求めるものであり、その要求は30年の間、一度も放棄されていない。そして6月4日の大規模殺戮があったことでもう一つの要求が、それに加わった。それは天安門事件の真相が公開されることで「中国の大地で正式に「天安門事件は暴乱ではなく大規模な殺戮だった」ということを宣言すること」なのだ。