甲辰年十一月初三。気温4.1/18.1度。晴。地元のラジオ曲ラッキーFM(茨城放送)の夕方の帯番組“CONNECT”のニュース枠で水戸芸術館館長に就任の片山杜秀氏へのインタビュー放送あり。拝聴。
片山新館長は初代が吉田秀和、継いだのが小澤征爾で自分がこの二人の偉大なる存在に比べ……と謙遜は当然かもしれないが音楽(コンサートホールATM)と現代美術ギャラリーについては芸術館の実績に基づき確固たる方向性について語られたが演劇(ACM)については演劇には高尚レベルなものと庶民的なものとがあつて、そのいずれも大切で比較的受け入れやすいものについては定着してゐて……と片山節も多少ハギレが悪いのはACMの演目が今ひとつで多少迷走してゐることに理由あるのでは?と勘ぐるところ。芸術館の開館にあたり鈴木忠志が演劇の芸術総監督になつて当時は柿落としが新設の劇団ACMによる〈ディオニュソス〉、米国四大劇団合同公演の〈リア王〉、ソフィー=ルカシェフスキー演出の〈サド侯爵夫人〉、劇団花組芝居や第三エロチカなど当時とても勢ひのあつた劇団がやつて来て、能も四派が順繰りに毎年七月に公演*1……と本当に魅力的な演劇の舞台が続いたのだが鈴木は1995年に水戸芸術館を去り1995年に郷里の静岡に創設されたSPAC(静岡県舞台芸術センター)の芸術総監督に就任する。これについて(タイミングよく今年9月に)鈴木忠志が「私の履歴書」で言及してゐた。
鈴木忠志(演出家)私の履歴書(26)新しい公共劇場 - 日本経済新聞(20240927)
水戸市は市政100周年を記念して1990年に音楽ホール、劇場、美術館を備える芸術館を建設した。佐川一信市長と吉田秀和館長の希望で、それぞれの部門に芸術総監督を置いた。音楽が吉田館長兼任、美術が中原佑介、演劇が私である。小澤征爾が室内管弦楽団をになった。
水戸の芸術館についてはこれだけ。何ら信念も情熱も語られてゐない。そこから鈴木は静岡のことを熱く語る。水戸芸術館での活動を始めたある日、静岡県の総務部長が訪ねてきて芸術館の敷地にあるレストランで鈴木と総務部長は面談する。静岡県知事(国会議員を長く務め建設大臣にもなった斉藤滋与史)の文化構想の対して鈴木は日本のほとんどの地方自治体には公共ホールについて箱物行政の弊害を総務部長にぶつける。地方が本当の舞台芸術を軸とした文化振興をするなら本格的な専門劇場をつくる必要がある。そのためにはまず地方自治法244条の「公の施設」に書かれている規定*2を改正しなければならない。それに対して総務部長は地方自治体の一行政官でありながら鈴木忠志の指摘した地方自治法のシバリは「やり方によつては何とかなるでせう」と宣つたので今度は鈴木が驚いた。鈴木は自分が静岡に行く条件として「劇場は芸術の専門家集団の活動の本拠地でなければならない」わけで芸術総監督に人事権と予算の執行権がないと運営ができず予算は文化団体の活動に対する補助金ではなく知事の政治政策を遂行する性格のものでなければならない*3とした。その鈴木の要求を静岡県知事は承諾してSPACの創立と芸術総監督として鈴木の招聘が決定する。そこで静岡県知事の出した条件が「利賀村の活動は継続して結構ですが、県庁所在地である水戸市の芸術総監督だけは辞めてほしい」。鈴木はそれに応じたかたちで水戸を去つたのだつた。水戸の駿府に負けた(たゞこれについては水戸芸術館側には勿論、芸術館側の言ひ分があるだらう)。この静岡県の斉藤知事は間もなく病に倒れ総務部長は出身省庁である自治省に戻る。財政課長、税務局長、消防庁長官まで歴任して、その石井隆一なる行政官僚は富山県知事に。石井知事が鈴木忠志の利賀村での活動を強力に支援してゆくことに。