癸卯年五月十三日。気温摂氏21.1/29.6度。山口では200mm超の豪雨。全国的に悪天候のなか関東はあまり降らず。ご近所の桔梗がきれいに咲いてゐる。
出先の図書館で子ども用の絵本が絵本といふのはかなり多言語で出てゐて絵本だから絵もタイトルの書体まで似てゐるのが見てゐて楽しい。並べて写真を撮つてみたら床のカーペットの色が偶然、キャセイパシフィック航空の色だつた。香港は観光客の戻り、とりわけ日本からの旅行者増に躍起で万単位の無料航空券キャンペーンまで実施(こちら)。
香港で日本人ジャーナリストの入境を拒否 過去のデモ取材を問題視か:朝日新聞
警察も教師も足りない「政府に忠誠」拒み退職、香港の公務員の苦悩:朝日新聞
明日で国安法施行から3年。「もう自由ではない香港」といふ悪い印象の払拭をしたいところなのだらう。
夫馬信一『百貨店の戦後史 全国老舗デパートの黄金時代』(国書刊行会)読む。「百貨店の戦後史」と題にあるが内容は「百貨店の盛衰から見た戦後史」だらう。著者が蒐集した貴重は写真や当時の百貨店関係者の証言、エピソードなどかなり面白い。函館(棒二森屋)の新築から改築の設計は新宿区役所(昭和41年)を代表作とする函館出身の明石信道であることやデパートから朝や夕方に流れる「ミュージックサイレン」は日本楽器(ヤマハ)が昭和25年に製造販売開始したもので、その鍵盤で音源を銅筒に刻む装置のことなど。だが昭和の地方での百貨店の誕生から衰退までを描くのに社会問題などとの関連づけが一寸強すぎる感あり。勿論、長崎(岡政)の大水害だとか新潟(小林)の大火や地震など百貨店も災害に見舞はれたのは事実だし戦時中、戦後の歴史、そして経済や消費の動きが百貨店の運命を左右してきた。だが極端な例をいへば福島県で浜通りでの原子力発電の事業の開始と福島市の中合百貨店の営業展開とは何ら直接の関係はないはず。昭和35年の大規模拡張で県内初のエスカレーターに多くの客が集まり混乱で「あはや大事故」といふところ「そんな騒然とした門出からわずか二ヶ月後の11月29日、福島県庁では県開発公社の理事会が開かれた」「会議では東京電力から提案されていた計画を検討し、県として積極的に誘致することを決定する」「その計画とは、同県双葉郡大熊町を候補地に原子力発電所を建設しようというものであった」。中合百貨店の増築から原発誘致決定が「わずか二ヶ月」なんて直接の因果関係はないはず。
ところで福島の中合百貨店にはアタシは幼いころに強烈な印象あり。福島生まれの祖母が夏に帰省するのに水戸から水郡線で郡山、東北本線で福島につき市内の渡利にある祖母の弟(長男)の家に兄弟姉妹が集まり、そこから飯坂温泉に一泊となるのだが渡利の家族が阿武隈川を渡り大町にあつたデパートに連れて行つてくれた。当時、水戸には伊勢甚と志満津といふ二大デパートがあり「福島のデパートなど伊勢甚ほどだらう」とタカを括つてゐたら店舗も立派だがロビーの雰囲気などかなり豪華。日本橋の三越や高島屋ほどではないが地方都市で、そのテイストなのであつた。これには驚かされ「負けた」と思つたものだつた。それが数年後に福島を再訪すると中合デパートは駅前に移転してゐた。東北新幹線計画が動き出し、それを見据ゑてなのだと聞いた。旧店舗よりもさらに大きな建物だつたが小学生の目にも充実感に乏しいといふか何だか「抜けてしまつてゐる」印象。それについては、この書籍で詳しく述べられてゐてナルホドと納得。ところで「中合」といふ屋号が「なかごう」といふ湯桶読みも含めて違和感があつたが、これは中村呉服店が百貨店化するとき中村合名会社となり、そこから「中合」と略が屋号なのださう。だから「ちゅうごう」でも「なかあひ」でもなく「なかがふ」。
まだ梅雨だといふのに暑さで(といつても去年の今頃は35度超の猛暑日が続いてゐたのだが)半袖の開襟シャツなど着るようになり腕が何だか貧弱で久しぶりに腕時計をしてみて、それでも時間を確認するのについ須磨帆を見てしまふのが我ながら可笑しい。時計はあまり持つてゐない。この(画像の)他にPatek Philippeと精工舎の懐中時計が各1だつた。