癸卯年五月初六。気温摂氏16.8/22.6度。曇。沖縄慰霊の日。
中村伸郎『永くもがなの酒びたり』(早川書房)読む。
私の文学座時代、あれはまだ久保田万太郎先生がご建材のころ、杉村さんの好評の舞台が二、三続いた折、私は久保田先生に、
「これからの杉村春子の課題は、あの勝気だけの演技から、東山千栄子さんのようなふくらみのある柔らかさが出せるようになることですね」
と言ったら先生は、
「君は知らないねぇ、杉村春子という女優は突っ張りを信条にしてゆくタイプなんだよ。あの舞踏家の✕✕女史みたいにね」
と言われた。✕✕女史の名を私は忘れてしまったが、女が芸の世界で必死に生きる、あるタイプと見抜いておられたらしい。そして、
「杉村春子が柔らかい、例えば母親の情なんか出せるようになったらお終いだよ」
とまで言われた。先生の接して来られた松井須磨子以来の日本の女優の一タイプと決めつけておられたようだった。
小津安二郎『東京暮色』の撮影で、試写室で
私は肩をとんとんとたたかれた。誰かと思って振り返ったら小津先生で、
「ありがとう、結構……」
と言われた。結構、というのは演技が好かったという意味ではないのである。(1986.7 悲劇喜劇より)
ところで里見弴『極楽とんぼ』より。筆致といふのはかういふもの。
どれほど政治に無関心な者でも、どつちがいゝのか悪いのか、さつぱりわけわからずにもせよ、少なくとも鬱陶しくは感じたらう、あの大雪の三日間……。その同じ年の夏……(続く)
これが一人の「極楽とんぼ」の生涯を描く小説のなかで二二六事件についての描写。たつたこれだけ。だがこれが素晴らしい。そして
物乾竿に赤い布が飜へらうと飜へるまいと干割の隙から灯影が洩れようと洩れまいと足袋跣にならうとなるまいと委細おかまひなしに片ッ端から焼かれて行き、二十年の五月二十四日には、その界隈も綺麗に均されて了つた。
これが昭和20年の東京大空襲の頃の描写。そして或る幇間の一生を描いた『やぶれ太鼓』といふ短編より。終章。
……ちと熱い目の朝湯からあがり、脱衣場へ来て、いつぱいに陽をうけた、磨硝子の、表の格子戸へ眼を向けたと思ふと、くら/\ツとして、三平は、そばにあつた看貫へよろけかゝり、ぶつけた肘の痛みどころではなく、そのまゝそこへ、へそ/\と坐り込んでしまつた。顔見知りの近所の人が、水で絞つて来た手拭を、頭に乗せたり、いろ/\親切にしてくれたが、当分は、礼の言葉も出なかった。———胸が締めつけられ呼吸がとまりさうだつた。
その日の午後にも、軍用列車の通過があつた。(略)
……組合旗を捧げて、三平は、炎天下に立つてゐるうち、眼をつぶつた覚えもないのに、急にそこらぢゅう真暗になつて来た。……おや/\? へんだぞ、こいつアいけねえ、……あゝ、いけねえ、———さう思つたのが、意識の最後だつた。……病院に担ぎ込まれた時には、既にもう縡切れてゐた。享年五十一。組合旗を捧持したまゝ、職に殉じたのだから、組合葬にしようか、との説も出たが、沙汰やみとなり、網元の旦那が、万端の出費を引き受けた。