富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

癸卯年正月初二

気温摂氏0.7/6.3度。午後まで小雨。大相撲が終つての相撲ロス。なんともヒマ。先日、鎌倉に遊んだあと、この先に二月の下旬まで一か月近く恥ずかしいほど何も予定もない。お能に行く予定もなく歯医者も誰かと食事する予定もない。

菊正宗に雲月の小松こんぶがあれば他に何もいらない

久が原T君に勧められ青空文庫で『胡堂百話』読む。少年時代の啄木の話。露伴の猥談。散人との距離感。「内村鑑三全集と今村均」とかレコード蒐集家としても一流の胡堂先生らしく「ヘンデルの救世主」とか名随筆。

芸術新潮 2013年 08月号 [雑誌]

『芸術新潮』2013年 08月号眺める。丹下健三生誕百年で特集は「磯崎新が読み解く知られざる丹下健三」。岡本太郎について読んだりテレビで見てゐると岡本太郎に対する丹下健三も俄然面白くなるから。そこに先日亡くなつた磯崎新が絡む。太郎が縄文なら健三は弥生。その健三が近代建築とすると磯崎新の世界は確かにポストモダンを意識したものにならざるを得ない。

僕(磯崎新)は広島の建物(広島平和記念資料館)よりもむしろモニュメント(原爆死没者慰霊碑)が日本の戦後の独立宣言に相当するぐらいの意味を持っていると思うんです。(略)日本の独立を象徴するモニュメントとは即ち原爆の慰霊碑であるが故に、そうだと思うんですね。丹下さんはとても理論的に明解にやっている。だから近代国家日本の建築家としては、この人のこの仕事が最も代表的であるとまで思うんですね。

アルベルティが「建築とは小さい都市、都市は大きい建築」といっています。だが両者がばらばらになってしまった。両者を統合することに視点を定めたのはあの時代では丹下さんだけでしょう。彼はそれをコルビジェというよりミケランジェロに見つけたと僕は思う。それがこの論文(大東亜計画)にしっかりと表明されている。実は歴史的にはミケランジェロが建築家として評価されることになったのは戦後です。でも丹下さんがこの論文を書いたのは建築史敵な資料のほとんどなかった戦前です。