富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

朝倉摂

陰暦六月五日。気温摂氏23.6(水戸の最低)/ 35.3(東京の最高)。家人と池袋から西武線で中村橋。2016年夏のしりあがり寿展以来で練馬区立美術館。

生誕100年 朝倉摂展 | 練馬区立美術館


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朝倉摂(1922〜2014)は彫塑の大家・朝倉文夫の娘で学校には通はず文夫と親交深い教養人が上野谷中の朝倉邸に招かれゝばそれが娘たちの一流の教師。伊東深水に日本がを学び戦時中、終戦後も不自由もなくモダンな日本画を描く。戦後はキュビズムとも出会ひ。昭和25年に父の朝倉邸を出た頃。そこから戦後復興する「社会」と出会ふ。まるで社会主義リアリズムのやうな画風。工場。バラック大谷石の採掘現場。重い石を運ぶ女性たち。重労働でわずかな収入を得る労働者に「画家はいいなぁ」といはれ、さういふ声を何う表現するか?である。日米安保。経済成長と公害。さうした時代を絵画に「もう先に何もない」ほどの想像力で描き続ける。

日本画、挿絵、舞台美術……「今」を生きたアーティストの全貌「生誕100年 朝倉摂」展 – 美術展ナビ

そして舞台芸術の世界へ。圧巻である。蜷川幸雄演出の舞台の模型など見てゐると、そこにリア王オイディプス平幹二朗が君臨してきさう。あと10年生まれるのが早かつたら70年代後半からの、あの芝居を見てゐたのに。しかし当時の子どもは実は絵本で朝倉摂に親しんでゐたのだ。講談社の『たつのこたろう』や『ごんぎつね』の、あの少し不安な、あの吸ひ込まれさうな眼。作家の生誕百年で本格的な初の回顧展で数百点の展示は圧巻。その人の絵画を見ただけで自分の世の中の見方や考へ方まで変はつてしまふやうな、アサクラセツはさういふ存在の画家なのである。
少し遅めのお昼で中村橋の商店街にある蕎麦や(辰巳庵)で冷やしのむじなそば啜る。今日は少し雨も降り終始曇り空で強烈な陽さしがないだけでもまだ歩きやすい。池袋から茗荷谷茗荷谷丸ノ内線の駅が高層ビルの下になつてゐたり随分と風景が変はつてゐた。日曜日で池袋からこのへんは進学塾通ひの親子づればかり。まぁ誰もが学校に通わず朝倉摂になれるわけではないから。それにしても競争社会の切なさ。湯立坂を下り小石川植物園まで歩いたのは

建築博物誌/アーキテクトニカ 東京大学総合研究博物館小石川分館(建築ミュージアム)

参観が目的。コロナで参観中止となつてゐたが再開したやうで出向いてみたのだがまだ参観中止(GoogleMapの地図にある営業時間を信じてはいけない)。実は古呂奈ではなく「耐震基礎診断の結果、耐震性能が不十分」で当面の間は開館見送りの由。窪町の谷間の住宅密集地を歩く。昔は長屋の並んだ町もところどころモダンな豪邸や高層マンションが建つてゐて千石の高台は高級住宅地。千石三丁目から都バスで不忍通りを抜け千駄木へ。高低差のある、この坂を上つたり下つたりの、この上58系統(早稲田〜上野松坂屋)は昔から好き。


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不忍通りから一本東の商店街の通りが「よみせ通り」なんて呼ばれ谷中銀座も観光地的に賑やか。だがその商店街から一本入れば昔なら長屋の並んだ小さな家家の並ぶ密な住宅地。谷中銀座の裏手の高台には富士見ホテルの廃墟あり。その静寂が怖いほどで、まさに東京の「喪山」である。

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朝倉彫塑館へ。こちらでも常設展の中で、朝倉文夫の彫刻の並ぶアトリエの窓際で「生誕100年 朝倉摂 diary」の展示コーナーあり。朝倉摂がまだこの屋敷に暮らした当時の、妹をモデルにしたデッサン画。朝倉彫塑館は昭和の終はり頃に家人と(当時はまだ「デート」か)来たこともあつたが当時より随分と「順路」も面白く、こんなに空間性があつた?と思つたら今世紀に入つて建物が国の有形文化財指定となり2008年には敷地全体が庭園で国の名勝になり平成21〜25年にかけかなり手のこんだ修復工事や耐震補強がされたさう。庭園といふには敷地=アトリエ兼住宅だが中庭=池がそれだけで庭園指定受けるほどの立派なものなのである。


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団子坂下から谷中の方に閒逛。穴子寿司が評判の寿司「乃池」は日曜日は昼から早晩まで通しで営業とは!だがまだちょっと空腹感がないのでまた次の機会に。全生庵の先の和菓子荻野で豆大福一つ買つて歌人と半分ずつ。愛玉子は閉まつてゐて扉も鍵がかかつてゐると思つたら若旦那が出てきて「テイクアウトだけでやつてゐる」さう。これもまた次の機会に。言問通りを根津の方に下る。洒落たお香やさんがあると思つたら木挽町に本店のある「香源」。焼香の伽羅を少し贖ふ。大黒やはこの猛暑のなか炭火を前に座り込んで汗だくで煎餅を焼いてゐた。不忍池のほうに向け漫ろ歩き。上野動物閉園の時間で音楽が流れる。キャバい上野広小路を抜け北大門町のとんかつの井泉。


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上野のとんかつの人気店は昼間は行列で夜も6時過ぎると混み始めるやうだが「笑点」の始まるころだとまだ静かなもの。ロースカツの美味い店はいくらでもあるが井泉のヒレカツは本当に絶品。


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トンカツは「定食」にせずお酒の肴程度にいたゞいたので「まだも少し食べられる」感でコリアンタウンへ。日曜晩で数軒しか開いてゐないなか〈海雲台〉がやつてゐて賑やかだつたがオモニが厨房に近いテーブルを片付けてくれてセンマイを肴にショジュを飲んで冷麺啜る。

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中联办の骆惠寜主任のコメントで「蘇州過後」とは?……古事成句かしら。

蘇州過後無艇搭:形容錯過咗一個機會之後就唔會再有另一個機會。江蘇地區嘅河流北少南多,南部水上交通發達過北部,而蘇州剛好位於南北之間,所以好多人相信北上過咗蘇州就會無艇搭,要改搭其他交通工具。