大公報が叱るのはなぜ新界沙嶺地区の開発が滞るのか、と。このまゝ無残に開発計画葬るのか。この沙嶺は香港と深圳の市境(これを国境などとは間違つてもいへない)羅湖の香港側東部にある未開発の土地で、そこに大陸購買客を狙つた商業施設建設計画があつた。香港に内地からの買ひ物客押し寄せ香港の小売業は儲けたが香港市民にとつては日用品物価価格の高騰や郊外ベッドタウンへの大陸客押し寄せで大きな負の影響あり。それが「光復上水」といつた本土派の社会運動になつたわけで、この深圳から直近の商業施設建設はさうした対策の一環。それが香港の反送中で内地購買客は激減し更に武肺が追ひ討ちをかけて小売業もどん底。そんな中で何うして、こんな商業施設開発ができようものか。蘋果日報報じるのは英国での香港からの移民福利政策。4.6億英磅で移民支援。低所得者支援などばかりか、そのなかには学校での英港歴史授業まで含まれるさうで中共はまた怒るところ。
このサンキュータツオさんの書評(朝日新聞)を読んで「三木のり平か」と。盲点だった。落語では志ん生、文楽に間に合はなかつたが「のり平」は明治座での一座の公演は世代的に十分間に合つた。中学生くらゐは落語が好きで鈴本などよく行つてゐたが当時、志ん朝さんがのり平一座の商業演劇なんか出てるのを「折角の逸材が落語をもっとやらないといけない時に芝居なんかに時間費やして」と寄席好きには苦言されてゐたわけで「アチャラカの軽演劇なんて」と遂に一度の見ることもなく終はつてしまつた。三木のり平といへば森繁の映画・社長シリーズでの宴会芸の部長であり、桃屋のCMで、あの軽妙な喜劇のヒトが幕内では「のり平先生」と呼ばれてゐようとは思ひもしなかつた。そんな後悔を今更感じゝ、この『何はなくとも三木のり平 父の背中越しに見た戦後東京喜劇』を読む。
東宝歌舞伎で(東宝ミュージカルに非ず)で<保名>踊つたのり平、西川鯉三郎師の振付だつたが舞台稽古で花道の出のところ見てた西川先生が「結構です!」で一切ダメ出しなしで会場では思はず関係者から拍手だった、といふ。それを明治座で「のり平が先代萩で政岡?……下らないわねー」で済ませてしまつてゐたとは。〈文七元結〉で志ん朝(文七)とのり平(長兵衛)のやりとりを見ておくべきだつた。名人志ん朝がそれを本題の落語の方の演出に使つた程だつたといふ。その当時、或るパーティでのり平に遇つた柏木の師匠が「(のり平演じる)あの長兵衛はまことにどうも結構。絶品です。志ん朝をこれからもどうぞよろしくお願いします」ってお礼を言つて「それからついでにあたくしも……てへっ」って。この最後のところで圓生師匠のあの目を細めた笑顔が浮かぶ。そして同じパーティで黒門町が「あれ(志ん朝)は落語界にとって百年に一度の男です。そのおつもりで大事にお願いします」と、のり平にアタマ下げたいふのだからあばらかべっそん。
逸話をもう一つだけ。のり平師匠の晩年に高田文夫先生が四谷荒木町のスナックで「本当はのり平先生と森繁はどちらの方が上手かったんですか?」と尋ねたら、のり平は「ここが違ふよ」と腕を叩いて逆に高田文夫に、かう言つたといふ。
オレは談志とたけしの芸が大嫌い。芸の言ひ訳をするでしょ。それに二人は出が悪い。アハハ……。
これを聞いて、アタシも本当に胸の閊えが下りる、溜飲が下がる思ひ。
こんな宗教ネタのギャグは今は絶対にダメ。それもあまりのレベルの低さがすごい。
この森繁の映画・社長シリーズで人気ののり平によるお座敷芸。あくまで宴会芸だから、前提として「そのお座敷で調達できるであろうものしか使わない」。映画だからといつて、それ以上の小道具なしでやつてみせる、その粋。