富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦五月廿八日

猛暑。朝と夕に驟雨。終日在宅。陋宅居間の窓辺、冷房排水のところで砂塵のなかに小さな芽吹き、少しずつ大きくなるので(写真残しておらず手書きイメージ)そのまゝぢゃ育たぬからそっと剥がして水栽培で根を少し伸ばして土に植えてやる。


f:id:fookpaktsuen:20190701093139j:image

f:id:fookpaktsuen:20190701093143j:image

開高健(昭和5〜平成元)はアタシにとつては書店に並ぶ大型本『オーパ!』で「作家だつた人が世界中で釣りをしてゐる」だつた。作家としては同じ寿屋出でも家には父が好きだつたのか『男性自身』や母が呼んだ『血族』など山口瞳は親しんでゐたが『裸の王様』が三島由紀夫を差置き芥川賞でも『日本三文オペラ』が傑作でも実は今まで開高健を読んだことがない。週刊朝日の特派でのベトナム戦争のものも読んでゐない。それが開高健ベストエッセイ(ちくま文庫)を読んだ。実のところ山口瞳(同)を読むのに同じシリーズで買ひ求めた。

26歳で日本バーテンダー協会の会報“The Drinks”に書いた「飲みたくなる映画」での映画と酒への博識、29歳で筑摩書房『言語生活』は洒脱な「大阪弁東京弁」、そして31歳で書いてゐるカラー版現代語訳・日本の古典⑰の井原西鶴の解説で今更ながら、なんとした文学者なのかと敬服するばかり。

これまでにすいぶんたくさんの国をわたり歩いて「経験」なる果実を蓄積してきたつもりだが、この国ぐらい意表をつかれたのは他に類がなかった。喜劇のすぐよこに悲劇があり、えぐりたてるような真実の一枚したに朦朧をきわめた影がよどみ、酷烈を味わった一時間後に腹をかかえて笑いころげたくなる事物を眺め、恐るべき博識と明智に出会ったかと思うと石器時代をやっとねけだしたばかりといいたくなる原始に出会い、腐敗と清純の両極を一日のうちに味わったかと思うと、翌日は沈思と叫喚を同時に目撃する。慟哭と哄笑、昂揚と懈怠、都雅と残虐、決意と朦朧、権謀と無邪気、ことごとくが亜熱帯の日光や「紙の花」と呼ばれるブーゲンヴィリアの花のなかで渾沌の渦動を起こしているのだった。どんな文体でも切りとってこれる現実があり、切りとられた現実はまがいようもなくその文体のなかで現実であるのだが、それを書きあげた翌日にニョク・マムのむんむん匂う町をよこぎってどこかの裏町へでかけ誰かに会うと、まったく正反対のまがいようもない現実に出会って、たちまち文体模索の放浪に迷いでていかなければならないのだった。文体を模索するとは、つまり、自分を模索することであり、鏡を眺めて桐野なかでのようにあらそうことだった。

こんな圧倒的な文章に出会ふと自分が言葉を綴る気も失せる。実に見事だが、これはもはや常軌を逸した世界に片足でも突っ込んだ筆致。きだみのるとか安吾とか。

石だたみのゆるい坂を上がったり下ったりしながら、暗い、壮麗な、腐ったアパルトマンの角から角へとたどっていくと、靴音が壁にこだまし、石の森を散歩するようである。その暗い森のところどころに燐光を放つキノコのようにキャフェやレストランが小さな口をひらいている。その赤や青の灯のしたで、冬なら生ガキや生ウニにレモンをしぼりかけて立ち食いしたり、コントワールにもたれて玉ねぎスープのドンブリ鉢をフゥフゥ吹いたりするのが楽しいのである。そして体に温かくてしっかりした燃料をつめこみ、タバコを新しく買いたして、水漏れのない、小さいが堅固な船になったような気分で、耳のうしろにひそやかなざわめきをただよわせつつ、ふたたび暗くて冷めたい溝のなかへ入っていくのである。


f:id:fookpaktsuen:20190701093722j:image

f:id:fookpaktsuen:20190701093725j:image

自家製のアイスクリーム舐めて甜酒を啜る。

f:id:fookpaktsuen:20190701093309j:image

本日、「撐警」つまり警察支持の「市民」集会あり。雨のなか16.5万人(警察発表5.3万人)参加。芸人では譚詠麟(アラン=タム)や映画〈寒戦〉で警務處副處長役演じた梁家輝(トニー=レオン)等が参加。
▼大阪でのG20のあと訪韓のトランプが急遽の呼びかけ板門店にて金正恩と再会。G20が遠くに霞む。

f:id:fookpaktsuen:20190702104724j:image

本日、陽暦で六月晦日。本日香港にとつて「まさかの六月」だつた。

f:id:fookpaktsuen:20190702103211j:image