富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦五月初四。芒種。

晴。朝の気温が摂氏29度で昼は33度まで上がるさうで猛暑警報発令。この程度の高温は日本でも珍しくないが湿度90%以上なのが辛い。午前中ある用事で香港政府関連の某役所に。受付の登記場所に工人(工事就業者)の一団をり何かと騒々しいところ何だかメモする必要あり「おい、誰か紙くれ!」と言ひ「これ使え」と同僚が要らない紙を渡したら「何だよ、これ昨夜の馬券だろ」「そうだよ、それでいいだろ、外れ馬券だ」「外れかよ、験が悪い」と、まるで熊さん、八っつぁんの世界。午後のある会合。渡された資料と口頭での説明内容に明らかに齟齬あり。後者が正確といふが、それなら明文化された資料は何なのか。早晩に散髪。元々、正統な昭和らしい七三の短髪だが理容師I氏に聖上・浩宮さんと同じにしてもらふ。名付けて「令和」である。

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季刊誌『状況』2019年春号で柄谷行人樋口陽一の対談「天皇制代替わりと改憲」読む。元々土俵違ひのお二方で2012年3月11日の反原発デモで遭遇されて以来。晋三のおかげで陽一先生と柄谷、小林節といつた繋がりができてゐる。ありがたい。今年85歳になられる陽一先生の〈護憲〉のレベルアップ。9条は戦争責任償ふ懺悔の証拠であり、だからこれが懲罰の押し付けといふ人もゐるが日本人の圧倒的多数はこれを「贈り物」として受け取り、それに胡坐かいてゐるのは事実だが、それを壊さず維持し経済的繁栄謳歌したのも朝鮮とベトナムでの戦争の犠牲があり、それを理解せず〈平和〉に浸かり9条の意味も忘却してきたことを批判する、と。二人の話は柄谷先生の〈徳川の平和〉と現行憲法との相似、陽一先生は1889年の大日本憲法発布からの立憲政治をAとして、それに対して同じ憲法下でも1935年から敗戦迄の10年をBとする。Aにはポツダム宣言で「日本国民の間における民主主的傾向の復活・強化」とされた大正デモクラシーもあれば1935年からの軍国主義を生む要素もあつたのだが少なくとも立憲制であり伊藤博文が「君権を制限し臣民の権利を保全する」のが憲法だといへば森有礼が人々の権利は自然権であり「法により与ふるものに非ず」で憲法に謳ふ必要なしなんて議論あり。今日の劣化した政府と国会では考へられぬレベル。あの陽一先生がこの1889年のA体制と徳川の合議体制は繋がるものあり、なんて発言されるのだから。リベラルで護憲派とされる平成の先帝については二人とも好意的だが陽一先生曰く「私たちは戦後70年も経つて明仁天皇のやうな、控へめではあつても明確な言動をとる内閣総理大臣を作つてこなかつた」のであり明仁天皇が名君であれ「天皇制が悪用される可能性」があり民主主義とて選挙で勝てば(実際は違ふのだが)民意を盾に強行政治が行はれる民主制の悪用もある、と。二人とも晋三ももはや改憲は不可能と断定で、それは結構だが柄谷先生が「第三次世界大戦が起きる」といふのが何とも辛いところ。

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香港の弁護士ら「反送中」で香港返還以来5度目の沈黙なデモ行進。終審裁から香港特区政府総部まで3千人の法曹関係者が参加(警察発表は880人)。これまでの法曹デモは
1999年 香港居留権につき香港政府が全人代常委に釈法請求
2005年 全人代常委による香港行政長官選出の釈法
2014年 北京国務院による一国両制白書発表
2016年 香港立法会議員の就任宣誓につき裁判前に全人代常委による釈法
と常に香港の法治及びやかす権力の政治的判断に抗ふもの。