富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-06-13

農暦五月初九。高温多湿。驟雨。マヨネーズが普及しなかつた(もともと生野菜のサラダがない)中国でキューピーの人気製品となつた甘味のマヨネーズを初めて使つてみる。嫌ひぢゃない。朝の三時すぎに目覚めてしまひ、未明と午後九時過ぎの寝る前に岩波『世界』六月号と文藝春秋七月号読む。
▼フロリダでの銃乱射。オバマは「テロ」と断定。この銃乱射の男がISに忠誠とか言及したにせよ日頃からホモ嫌ひのキチガヒだとしたら「気持ち悪いゲイをこの世から一掃する」も一定の政治的な目的を達成するために暴力を用ゐる=テロなのか。つまり何処ぞの誰彼も気軽にテロが起こせる社会。今回はフロリダのゲイのナイトクラブってのが、もうそのまま華々しくも物悲しい「ラ・カージュ」の世界。この写真にキャプションも要らぬ。在マイアミ日本総領事館に邦人が巻き込まれたといふ情報はないといふが、これで被害に遭ふと一世一代のカミングアウトなり。記事で「ゲイ」と書いて「男性同性愛者」と( )書きする日経のセンスもなかなか。
文藝春秋七月号読む。大した記事なし。「ハーフがいる風景」といふ連載が母がインドネシア人だが東京でイスラム教とは全く遠遠く育つた若者が高校を出て突然イスラム教に帰依した話など興味深い当世若者事情だが未だに「ハーフがいる」ことすら珍しいのかしら。
▼岩波『世界』六月号で香港在住の王冠緒による「香港 脆弱な一国二制度」は銅羅湾書店の社主誘拐や雨傘運動を中心に香港の政治制度の動きと現状をよくまとめてゐる(和訳は台北から本田善彦氏)。この中で陳建民氏(東京の四川料理の、に非ず、佔領中環の首謀者の一人)の今日の香港社会の多極化かと断片化、上の世代が提唱してきた民主回帰の失敗といふ判断による一部の青年層の急進化(港獨)を指摘。これまでの大中華主義的な情緒具へた「民主回帰」はかつて植民地主義に反駁の理論的ツールであつたが、もはや香港の若者にそれを求められず。陳先生は、穏健な民意が次第に急進派にとつてかはられ「意思疎通不能」の長期的な悪循環に陥る可能性への「憂慮を隠さない」とあるが実際に、もうこの悪循環に陥つてゐるのは確か。

本土派が勃興する以前から泛民・建制の両派は立法会の議席を巡って絶え間なく分裂を繰り返しており多くの政党が一議席しか保有していないのが現状だ。

……といふ記述は何か勘違ひしてゐないかしら。
▼岩波『世界』六月号で樋口陽一先生が「藤田宙靖『覚え書き──集団的自衛権の行使容認を巡る違憲議論について』に接して」と題して、それを「どう読み、どう考えたか」を書かれてゐる。この藤田論文は『自治研究』といふ法律の専門誌の今年2月号に掲載されたものださうで陽一先生は東北大時代の無二の親友の法学者による論文に呈された意見にきちんと答へようと自身の論説をまとめ始めたが日経や読売などでこの藤田論文が取り上げられネット言説でも陽一先生からすると「筋違いの読み方」を含めた反応があり、それが遺憾で今回この『世界』に慌ただしく手記を掲載させたといふ。その藤田論文じたい読む機会もなく引用だけでは今一つよくわからない。たゞ一つ明らかなことは長谷部恭男発言に始まり「多くの憲法学者」が安保法制は違憲だとして、それに異を唱へるのは自民党寄りの極少数の憲法学者のみといふ図式のなか最高裁判事まで務めた藤田宙靖が「憲法学者の大多数は違憲と判断」で「反対するのは立憲主義もわからない晋三寄りの体制派」といふステレオタイプな磁場で独自の冷静な見解を「地味に」出したらしい。読売の記事(3/30)は当然ながら集団的自衛権には肯定的。大石眞なる京大大学院教授が憲法解釈変更は「内閣も可能」として

  • 国の防衛や安全保障は一種の保険であり、保険は実際にことが起ってから掛けても遅い、事前にそれなりに手当てすることは立憲主義を守ろうと思うなら寧ろ必要な作業。
  • ある時代に作られた憲法があらゆることを想定し、その答えを書いていると考えるのは無理がある。だからこそ憲法改正の手続きに意味がある。憲法の無謬性や完全性みたいなものを強調すると何でも取り込んで解釈しなければいけなくなる。
  • 9条の背景について悲惨な戦争や日本の侵略などが強調されるが、それは過去に着目した歴史的解釈で解釈の作法としてあり得る。それなら憲法制定当時、集団的自衛権は意識されていなかったのだから制定後に生じた問題に憲法が回答を与えているとはいえないと思う。

といふような発言をされたさうで山元一・慶応大大学院教授の「立憲主義は特定の政策に反対するために使う概念でもない」といつたコメントもあり。そこで「政府が従来の憲法解釈を変更するのは立憲主義に反するという理屈は、それだけではあまりにも粗雑」で「従来の法制度の『運用』で処理できる場合には敢えて法改正を求めるのではなく、従来の法規の『解釈・運用』によって済ませるという行政手法は決して珍しくない。そのすべてを『違法』と決めつけることは、ほとんど不可能」といふ主張で藤田論文があるらしい。日経(3月30日、こちら)では「違憲説に一石投じた行政法学重鎮の藤田氏」として

藤田は憲法学界の違憲説を、安保法制の必要性への疑問や「強引に法律の早期成立にまで持って行った安倍政権の政治的姿勢に対する怒りの表現」だと受け止めて「そのほとんどを共有する」と述懐する。ただ「想定外」の安倍政権の動きに憲法学の側でも「一貫した精緻な議論が展開されているようには感じられない」と指摘。学者が「政治的思い」に引きずられてはいないかと警鐘を鳴らす。
法律学としての憲法学」に徹すべきだとして論文ではまず手続き論からの違憲説を検証する。安倍が歴代内閣の憲法解釈を変更したのは「法的安定性」を害するといった早大教授の長谷部恭男らの議論とは一線を画す。現実の状況ががらりと変わった場合など「これまでの積み重ねがあるからというだけで従来の解釈を変更することが許されないと言えるか」の論点がギリギリ残ると見るからだ。
安倍は内閣法制局長官を交代させてまで新解釈の閣議決定を敢行した。藤田はこれも「法制局は内閣の補助機関であり内閣の法解釈を『助ける』にとどまるのであって内閣が法制局の見解に法的に拘束されるという法理は我が国の現行法制上存在しない」と否定しない。同時に解釈変更の手続きを厳しくすることや人事面で法制局長官の独立性を強めるなどの改革を検討する余地は認める。
「今回の事態を巡る憲法問題は結局のところ集団的自衛権の行使を容認する閣議決定及び法案の内容自体が憲法の正しい解釈と言えるか否かという実体法上の問題を抜きにしては、論じ得ない」

と分析したあと藤田論文の分析をかなり詳しく紹介。読売の記事はちょっと怪しいが、この日経のを読んだ限りでは陽一先生の焦りがピンとこない。だがこの日経の記事を書いた編集委員(清水真人)が4月30日に書いたエッセイ(風、こちら)では「憲法学では多数派とみられる違憲説に学界の垣根を越えて行政法法哲学の重鎮が相次いで疑念を呈する」として藤田論文に言及して

長年の政府の憲法解釈は法規範として骨肉化しており、変更は法的安定性を損なうとの違憲説には「なお理論的な根拠付けが不足する」と疑問を示す。集団的自衛権の発動要件となる「存立危機事態」は事例によって「非常に微妙」とし「合憲限定解釈」の余地も示唆。違憲とは断定しない。

と、これは「おいおい……」な感じ。藤田論文を直接読んでゐないが藤田先生がそこまで言つたか?と怪しい。かうした流れに所謂、護憲派憲法学者も黙ってはおらず水島朝穂早大法学学術院教授が「集団的自衛権違憲」と憲法学者が主張する理論を藤田論文の整理分析も含めかなり詳細にブログで書いてゐる(こちら)。このくらゐ読んで、やつと藤田論文の指摘や背景、経緯が少しわかつて陽一先生の文章にたどり着くが正直言つて法学者でもない限り樋口手記は「よくわからない」。それでも何度も読み返すと、つまり藤田が呈した「実体法上の問題」を樋口的に分析した上で、なぜ樋口を含む多くの憲法学者が、その本来の実体法上の問題以前のところで違憲主張に集中せざるを得なかったか、を述べてゐる。この「実体法上の問題」は面白いので少し頭の体操的に見ておくと憲法9条の下で集団的自衛権行使が可能かどうかについて従前の政府見解=内閣法制局見解(旧解釈)が2014年7月1日の晋三クーデターの閣議決定で「変更」されたこと(新解釈)。この変更批判を目標とする憲法学説(木村草太らによるもの)を藤田は否定した上で、この変更の読み方を示してみせる。
① 旧解釈の否定→新解釈 
② 状況の変化に適合するための「置き換へ」としての新解釈
③ 「憲法の内容についての解釈」についての新解釈。やゝこしい。旧解釈を否定とか置き換へするでも憲法内容についての新解釈にも非ず。
このうち①については藤田は自民党政府が最高裁砂川事件裁判「だけ」援用することに法的判断の初歩的誤りを指摘。樋口もこれは同意。②も「現状下でも個別的自衛権行使で十分に対処できる」といふ反対論に政府が十分説得的な説明責任を果たしてゐないといふ点。樋口はこれも同意。だが藤田はこの安全保障政策に関はる国際政治論的な問題について「法律学が」判断の適否を取り上げ得るかと疑問呈したことに樋口はその通りだが「憲法解釈の変更は実質的に憲法改正に匹敵するもの」で上位規定(ここでは憲法9条)の制約下で一定の判断を規範化(ここでは立法化)する場面で法律学には役割があるとする。③はもはや禅問答。分析をかなり端折るが集団的自衛権について個別的とは異なる定義づけの要因が厳しく絞られたはずが藤田もその曖昧さを指摘し「底ぬけ」だとしてゐるのだから、と藤田は集団的自衛権が「違憲」だと結論づける寸前まで論理を詰めて見せながら一歩手前で立ち止まる「寸止め」をした、とする。そして「変更」の次は藤田の説く「公理」に論点が移る。
❶ 法解釈である以上は仮に従来のそれが誤ったものであるとすれば改正するのは当然で、それが許されないといふことはあり得ない。
❷ 国家機関による法の適用には、まず省庁なりの法の内容の確定が必要で、最高裁判例でもあれば別だが、それがない場合は自らの解釈に依らざるを得ない。内閣法制局は内閣の補助機関で、内閣は法制局の見解には拘束されない。
❸ 最終的は判断は最高裁で、他の国家機関による法解釈は暫定的。内閣法制局も単なる内閣の補助機関で「憲法の守護神」ではにない。
これについて樋口は❶はその正誤判断じたい恣意的と指摘。晋三にとっては憲法自衛権教育基本法も戦後も!「誤っている」なのだから全て「改正」になつてしまふわけで、その偏向の危険性を考へると法学者が❶のやうな悠長なことを言つてはゐられない……といふやうなことか。❷について前段は樋口は警官による路上駐車の取り締まりを例にする。内閣法制局については旧憲法下で最終的には天皇の聖断仰ぐにしても大臣の対議会責任を憲政の常道として形なりにも立憲政治を敷いたことを挙げ、晋三の判断があつても、それが聖断なら、そのやうな政治装置だからこそ内閣法制局に存在意義がある。❸かなり確信に迫る。ある法案を内閣が通すため憲法改正手続きをとる場合、最高裁の判決もその場合は国家の判断としては暫定的。国家として必要なことは憲法改正案として規範化されるべきだが立法といふレールを通り抜けやうとする列車を一旦停止させ憲法改正といふレールに転轍させる役割が違憲審査権だが最高裁憲法9条につき一貫して判断避けてきたもの。かのやうに「変更」と「公理」について樋口の解釈を経たのち今回の集団的自衛権が「実体法上の問題」以前のところで新解釈を批判する側が「法的安定性」を呈したのか、を語る。藤田も旧解釈の一定の秩序があり、それが一政府の合理性を欠く新解釈で否定されるなら法的安定性に問題があるとするが、かうした判断の積み上げによる正当化は規範論理的に「最終的に限界が残ることは否定できない」とする。それでも樋口は、今回の事態が立憲主義の常道を踏み越へたもので、そこで提案され成立する法案が平和安全や国際平和を求める日本のあり方を破壊するとしたら……と考へれば、と晋三的な「緊急事態」は真逆だが、さういふ追ひ込まれた状況で憲法学者の「いきすぎ」窘める藤田に樋口が文太兄さん風に「兄弟、こゝは止(と)めてくれるなっ」と言つてゐるやうに読めてならない。

世界 2016年 06 月号 [雑誌]

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