農暦十一月初八。冬の晴天。金鐘で打合せ一つ済ませ昼に銅鑼湾。利舞台の翡翠邨といふ広東料理屋で豊中K氏と珍しく飲茶。湾仔。日暮れ前に海洋公園。東京からお越しのO女史家族と待合せ。バスで香港仔。水上レストラン•ジャンボまで(食事もしないのに御免なさい)で往復。ジャンボ訪れたのも15年ぶりくらゐ。香港仔から鴨脷洲に渡る。Z嬢も来て發記小廚に飰す。Z嬢が此処から銅鑼湾行きのミニバスがあると誘なはれミニバスの始発に乗ると本当にあっといふ間に10数分で銅鑼湾に到着。母が妹と正月二日、浅草公会堂での歌舞伎の初芝居を見に行こうかと思つてゐるといふ。まだ席はあるみたいだから、といふので見てみると初日から千秋楽まで売切れは無し、二日初日も五列目の中央に二席ぽかりと空席……うーん。尾上松也を看板にして、で奮闘ださうだが新之助→海老、亀、中村屋兄弟が出てゐたときに比べると、やはり集客力に難あり。ちなみに1980年の第1回の浅草正月歌舞伎、播磨屋と大和屋の鳴神、大和屋の鷺娘に勘九郎の供奴、で入谷は直次郎が播磨屋、三千歳が大和屋で丑松が勘九郎でげすよ。
▼昨日朝、永遠の長距離ランナーたる葉倫明伯逝去。「跑完九十三歲人生」と蘋果日報(こちら)。祖母が日本人で葉さんも日本生まれ。戦争直後に台湾から大陸に仕事で渡つた際に戻れなくなり数奇な人生送り老後はひたすら走り続ける。アタシは何度もレースで抜かされた。毎日のやうに柴湾から大澳の方に走つてゐたといふのだから汗臭い、かなり傷んだランニングシャツとシューズだつたのがランニングブームも手伝つてアディダスやナイキだかも香港でのロードレースのイメージキャラに葉伯を起用、かなり有名になりランニングシャツとシューズがいつも最新モデルとなつてゐた。2002年のSCMPに載ったドキュメンタリー記事の拙訳はこちら。葉伯がまさか太平輪沈没事故*1で奇跡的に助かつた数十人中の一人だとは今日まで知らず←折しもこの「東洋のタイタニック」の映画が今、公開。レースで会ふとアタシらに「日本人ですか?」と声をかけ自分の祖母のこと、父母のことなど日本のこと達者な日本語で語り聞かせてくれたのも懐かしい思ひ出。日本には戦後、一度も訪れてゐないやうで「元気なうちに一度くらゐ日本に連れていってあげたい」とランニング仲間で話してゐたが実行に移さず今更ながら後悔。哀悼。
*1:国共内戦後期に多くの難民が中国大陸から脱出しようとした。これらの人々は金塊と交換したり人間関係によりすでに満員の太平輪に乗船した。1949年1月27日(中国暦除夕の前日)太平輪は午前10時に出発予定だったが中華民国中央銀行の銀元の積み込み(裝運)を待ったため出発時刻は午後4時18分になった。太平輪には計1000人の乗客(乗船券を持つ乗客508人、船員124人、乗船券を持たない乗客約300人)が乗船しており、また条鋼(鋼條)600トン、東南日報の印刷機・新聞紙100トン以上、中華民国中央銀行の重要書類1317箱、迪化街(の店が:富柏村注)が予約購入した南北貨などの重量貨物を積載していた。1949年1月27日、太平輪は中華民国上海市から基隆市へ向けて、夜間外出禁止令を避けるため航海灯を消灯して夜間航行中、同日深夜23時45分、舟山群島海域の白節山付近で基隆市を出発した2700トンの石炭や木材を積んだ建元輪と衝突した。船体の中央部に衝突された建元輪はすぐに沈没し船にいた72人が溺死し3人が太平輪に救助された。太平輪は衝突の45分後(1月28日0時30分)に沈没し船にいた1000人以上の人々が死亡した。水中に落ちた人々は、当時は気温が低かったため、凍死または溺死した。:ヰキペディアより