富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2014-12-28

農暦十一月初七。夜が明けると霧深いが徐々に晴れ間が現れる。7時半にラウンジで恐らく口開けの朝食客となる。麺を茹でてもらふ。気温は摂氏13度くらゐで薄ら寒いが千灯湖の周囲をジョギング。人工だが風向明媚。支那趣味の湖水と周囲の開発区とのコントラスト。Aeonのある保利水城と反対岸にある飲食店街はすこし廃れてゐる感あり。ホテルに戻りフィトネスクラブのサウナに温まり部屋に戻り『大槻ケンヂが語る江戸川乱歩』(角川文庫)読む。小学生のときにポプラ社の乱歩シリーズで(今はこのシリーズからも外されてゐるが)猟奇物の『魔術師』や『一寸法師』にどき/\して中学生の時に創元社の文庫で『パノラマ島』や『孤島の鬼』『芋虫』のエログロに魅了された……といふケンヂさんと同じ感覚の当時思ひ出す。この文庫に収録の短編『鏡地獄』『押絵と旅する男』『踊る一寸法師』『人でなしの恋』も読む。角川文庫は頁の余白が狭いのが嫌い。午後、ラウンジに五度で遅い昼食かはりの下午茶。広州は外来住民多く普通話かなり浸透してゐるが佛山は市街地は工場など少ないこともあり外来者が少ないからかしら。午後四時にレイトチェックアウト……でもラウンジで寛ぐこと午後五時すぎまで。夕方の散歩かね荷物引き摺り南海体育館隣の中旅まで歩く。四連休の終日でさすがに今日の午後の香港行きバスは完売の由。17:55の香港往き跨境巴士に乗車。深圳湾での越境含み約3時間で香港に還る。今回の2泊3日で2人で食事が73元、南風古灶の入場料これが高くて1人25元もしたが、あとは4回バスに乗つて8元ほどで1人70元しか使はなかつた計算になる。湾仔でバス降りて空腹で永華麺家に麺を啜り帰宅。有馬記念録画で見る。たら、れば、だがジェンティルドンナ馬券買へれば買つてゐたのに。ゴール前で「迫ってくるライバルを抑え込み」なんて表現が踊るが、相手の攻撃を抑へるやうなスポーツや討論ならわかるが馬が勝手に走つてゐる場合も「抑え込み」なのかしら。佛山での三日間で耳にする大部分が広東語。広州は外来人口も多いが佛山市街は工場などもなく今以って広東語圏なのだと知る。ホテルで幸いにGoogleなど繋がつたがgoogleでの検索とgmailの送受信が不安定で訝しかつたが中国政府が規制してゐた模様。
▼佛山から香港に戻るバスは真っ暗。座席上の読書灯はつかない。こんなときiPadは実に便利で、それで読んでゐた紐育時報の26日の“The Elusive Chinese Dream” by Jeffrey N. Wasserstromが実に興味深い内容(こちら)。
Perhaps the most urgent fear is this: a sense among even those Chinese whose living standards have soared that frantic development has come at too high a price. Never in history have the promise and peril of head-spinning modernization been so apparent within the space of a single lifetime. A country where the authorities call the air in the capital “fine” on days when nearby skyscrapers are completely shrouded from view, where waterways are suddenly and inexplicably clogged by enormous numbers of pig carcasses, where once-revered elders live in rural poverty and isolation ― this is the stuff of nightmares.
広東省の「豊かな中国」を眺めた数日でこれをしみじみと読む。中国はどこまで行くのかしら。佛山のあちこちで見かける、耳にする標語は
富彊 民主 文明 和諧 自由 平等 公正 法治 愛国 敬業 誠信 友善
このうちいったいいくつが中国で成り立ててゐるのか……現実にないから実現目標のスローガンなのか。その中国と共存しなければならない日本。嘘でも戦前まではアジア主義的な思想的共存はあつたのだが。中島岳志が今更敢へて「アジア主義」に取り組んでゐるが、かなり無理もあるし寧ろ日本の思想家でこれが出来るとしたら橋爪大三郎ではないか、と思つてゐたが、その橋爪先生が中島の「アジア主義」を朝日(だつたか毎日だつたか)の書評で絶賛。アジアには西洋の汎ゲルマンや汎スラブといつた(キリスト教もさうだが)人種や言語、民族文化超えた具体的共通点で連帯希求する運動があるがアジアには共通のそれがない。唯一あるのは「雑多な後進地域にすぎないと一括りにする西洋植民地の視線」で、その視線を密かに内在させないと日本のアジア主義は成立しないのではないか、だからアジア主義帝国主義的拡張に奉仕することになつてしまふと流石橋爪先生の分析は的確だが、中島はそこまでアジア主義を突き放さない。そのためには
アジアの社会や文明の実態を、一世紀前の亜細亜主義者たちより、一回りもふた回りも精細に記述した上で、日本についてもその文化社会の同一性を深く掘り下げ、国際社会の人々に容易に理解できる普遍概念によって再定義する作業が必要になる。
って、なんでそんなに橋爪先生も意気込むのかしら。そこまでアジア主義なんて「思想」が必要なのか。別に普通に大陸と付き合つてゐればいゝのに、と思ふ。さらに、この思想的活動は竹内好丸山眞男橋川文三井筒俊彦吉本隆明らを「一周遅れで追い越すのと等しい」が「誰かがやらなければならない仕事だが、中島氏ならできる、今後に期待したい」と。大風呂敷広げて思想語るより魯迅の日記や書簡読んで思つたが日ごろの生活しかないやうな気がしてならない。