富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

占拠六日目、曼谷三日目

fookpaktsuen2014-10-03

農暦九月十日。朝四時半くらゐに起きて机に凭る。早朝の冴えた頭で「少なくてもタイ国軍は国民の権力剥奪しない限り専制としては中共よりずっとマシ」と思ふ。06:40に東京の某ラジオで香港の状況について電話で数分語る。午前九時前に退房。タクシーでチャオプラヤー川向かふのペニンシュラホテルに行くといふと運転手混雑厭ひ฿200なら、といふ。スクンビットから米国、日本など大使館並ぶウィッタユ通り、サトーンヌア通りを抜けタクシーン橋を渡るまで朝の渋滞に紛れもせず順調だつたがタクシーン橋を市街に入る方は渋滞甚しく、これでは運転手も嫌がるはず。ペニンスラホテル。朝九時半だといふのに部屋宛てがはれ下榻。チャオプラヤー川見下ろす25階の予約より一つ上級の部屋に案内される。ホテルの格式もあり失礼がない服装でチェックインだつたので部屋で急いでTシャツにハーフパンツ、サンダルに着替へ出街。ヒルトンホテルまで北上しシャロエンラット通りをウォンウィエンヤイ驛まで2.5kmほど歩く。商店の庇のおかげで強烈な日射し避けられる。ウォンウィエンヤイ驛のたつた一つだけのプラットホームはそのまま商店街。10:40発のマハチャーイ線のディーゼル列車で30数km離れたマハチャーイまで一時間。冷房なしの二等で฿10也。時速30km程度だらうがレールの保全が悪いからか揺れひどく暴走してゐるやう。マハチャーイは驛前の市場歩みチン河を船で対岸のバーンレムに渡る(฿6)。其処からメークロンに行く一日4往復の鉄道あり。メークロンは線路の上まで食料品が並べられた市場で列車が来ると日除け畳み慌ただしい態が面白いだらうがメークロンまで行くとバンコクに戻るのが夜になるので渡し船ですぐにマハーチャイに戻り波止場横のリバーサイドレストランで昼餉。13:15にマハーチャイを出る上りの列車でバンコクに戻る。雨。ウォンウィエンヤイ驛からホテルまで雨のなか歩くのもなんだがバイクタクシーは雨空に外国人相手だからか฿70とふっかけてくる。฿50にも応じず普通の四輪車のメータータクシーに乗ると฿47也。メータータクシーよりバイクタクシーが高いなんて。午睡。ジムのトレッドミルで30分だけ走る。ジャグジー。ホテルの波止場より渡し船でサートーン。適当に夕食済まさうとロビンソンでパートの前の狭い通りに入るとバックパッカー相手の安宿数軒あり、そのなかでBaan Glang Soiといふホテルのレストランが入つた時は一組の地元客と飲んだくれの西洋人二人しかいなかつたが忽ち満席。厨房はてんてこ舞ひでアタシらより後の客は料理供されるまでかなり待つことに。韓国人の家族連れ六、七名の客がゐたが飲み物だけで料理なか/\出てこない。Z嬢が「きっと怒って飲み物代だけ払つて出ていくんじゃないかなぁ、さっきから催促二度もしてゐるし」と言つてゐたら、その通りで痺れ切らし飲み物代だけ払ひ出ていつた。これで「韓国人は……」とステレオタイプな「嫌韓」はしたくないが彼らの感覚にしてみたら十卓以上の飲食店の規模で、夕食ともなれば満席なら厨房がどれだけ忙しくなるか、それに応じられるだけの人の手を用意しておくのが当然ではないか、客を待たせるのは失礼、てな発想で。このホテルの食堂、タイ料理期待以上に美味。路上の屋台でドリアン売つてゐてドリアン二房頬張る。シャングリラホテルの横にペニンスラホテルの瀟洒な船着場あり大きなボートZ嬢と二人貸し切りでチャオプラヤー川をホテルに渡る。
▼仁川のアジア大会で女子バレーボール、タイが日本破り銅メダル、とタイの新聞は祝賀。バレーボールといへば日本のお家芸だつたのは昭和の話か。それにしてもタイのバレーボールといふと、どうしても映画『アタック・ナンバーハーフ』(動画、下)想像してしまふのはアタシだけか←邦題の中では傑作の邦題の一つ。
▼香港での雨傘革命は六日目、道路占拠する市民と警察の膠着状態続くなか旺角の道路占拠に反・反対派の連中が口論吹きかけ道路占拠の若者らと衝突、ついに殴り合ひで流血の怪我人も。この反・反対派、だう見ても土共組織か郷議局関係者あたりが仕込んだ愚連隊のやう。香港島の金鐘の占拠はまだ平和裡のやうだが、いずれにせよ暴力沙汰避け占拠運動から身を引く若者も少なからず為政者は民主派に対して警察が暴力として敵視される構図から、不法行為続ける学生たちと暴力的な反・反対派の登場で警察がその混乱阻止に尽力する、といふ縮図が出来たわけで政府はいずれにせよ事態に苦慮といふ立場となり何らかの収集への糸口をば見つけたいか。いずれにせよ測量梁は絶対に辞職しない、全人代常委の決定は覆せない、がある限り反対派が何か納得できる結論もないのが実情。九月晦日の林行止專欄(信報)「傷生賊港誰之過? 和平暴力誰迫誰?」が指摘するのは、北京中央や親中派は英国の植民地統治こそ専制で民主的社会などなかったといふが、確かに国王が派遣する総督に絶対的権力があるものの封疆大吏=総督はその権力行使に慎重で香港政府で政策決定する官僚たちは女王に対する服従でなく、民主的な立憲君主国としての政治体制への確信と施政であつて1997年に植民地から「民主回歸」したはずが現実には一等専政で民主集中制中共への帰属であり、香港市民がそれを相容れられぬのは当然。香港基本法で香港は中共専制権力が国内でも留保された特別行政區で「港人治港」と「高度自治」謳ひ行政長官と立法會議員の選出も45条と69条で「根據香港特別行政區的實際情況和循序漸進的原則而規定……」としながら何故に香港のその選出方法が「国家の安定」に災ひするのか、香港市民は不安を感じ自らを憐む以外にどんな選択があらうか、と林行止。香港の自治に何かと苦言する全人代常委は身体(香港)に対する間違った血液型で輸血のやうなもの、香港がそれに適合しないのは当然とは見事な比喩。