富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

大茶化府知事橋下の詭弁を嗤ふ

六月廿八日(火)六月末の雨空、哺時、陋宅にてドライマティーニ飲みながら披頭四でRubber Soulを聴く。いゝねぇ。晩に韮と大根おろしの鍋で豚のしゃぶ/\。食後の記憶なし。
朝日新聞のオピニオン欄「争論」で君が代起立条例につき大茶化府の知事・橋下と野中広務先生の意見を紹介。橋下の言説、口先で上手なのはさすがテレビタレント上がり。「日本の教育行政はマネジメントできる状況になっていません」といふ<負>を先づ提示。その例として挙げるのが君が代での起立の不徹底。聞いた民草は「なるほど」と。わかり易いがそれぢゃ「他に何が具体的にマネジメント出来ていないのか」に誰が明確に答へられようか。で「教育現場は今や保護者の求めるものとかけ離れています」といはれると、これは誰もが認める事実でこの口だけ男の言説に「なるほど」と思ふ。がこヽがレトリックの見事なところで教育の問題は実は現場の問題なのではなく教育行政、さらに大局的にみれば文部省にこそ大きな問題があるのだが、そのへんが暈されたまヽ現場の改革が必須となる。で、それを実際に改革できるのが「民意を受けた政治が一定の方針として規範を定め、それに基づき教育委員会が現場をマネジメントする」ことなんださう。本当は「自分に全て任せろ」なのだが、さう言ふと批判されるから、この政治の主導と教委の現場マネジメントを「役割分担」と言つてみせ、さうした役割分担が「これからの時代に必要な教育行政だと思います」と〆る。見事(B級だが)。だが実際には橋下独裁の大茶化府やニューライトヨコハマでは自治体政治(首長)と教委なんて、笑わせないでよ、何が役割分担か一心同体そのもの。詭弁もいヽ加減にしろ、だが橋下のレベルの低さは明白で、問題はそれに騙される大茶化府民民度の低さ。ファシス都の都民に勝るとも劣らず。このペテン師にとつて目的はこヽ。本心から国旗国歌敬愛なのか、は怪しいところ。じつは一番用ひ易いネタだから取り挙げてゐるだけ鴨。それに対して野中先生の言説は溜飲下がるもの。橋下を生む、小泉改革を支持する、政権交代に浮かれる日本は「わかりやすい敵を作り、徹底的に叩いて支持を広げるポピュリズム政治がはびこる土壌がある」とご指摘。そのポピュリズムナショナリズムと結びつき易い、と警告を鳴らされるが、それがこの市民革命も経てをらぬ民草には解らず。君が代起立条例については一言「政治は教育に口を出すべきじゃない」と。御意。野中先生は「なぜ教育委員会制度があるのか考えてください」「政治が教育を支配した戦時中の反省に基づいて「教育の独立」という変革をしたのです」と力説される。が、何が悲しや、その戦後の改革に二十歳だつた野中さんだから体感している事実。その戦後の教育と公安の民主化自治など赤化恐れ撤廃したのが野中先生の自民党。そこで育つた国民の幾ばくが教育と公安の自治なる史実を知ろうか。教育基本法すら改悪された今、野中先生の政治責任も問はれようといふもの。
▼日の丸、君が代も野中先生は教育委員会日教組の対立があり問題は日の丸と君が代が「法的に位置づけられていないこと」が対立の原因だから、と卒業式前日にこの板挟みで広島の高校校長が自殺した「悲劇を繰り返してはならない」から当時の小渕首相に国旗国歌法案を進言した由。これも野中先生には大きなミスあり。先づ認識の誤謬はこの問題が「教委と」日教組が対立に非ず。「当時の自民党の国家権力と」反対勢力たる左翼系組合の対立。悲劇はたんに一人の校長の自殺に非ず「この国のかたち」なきことこそ悲劇。野中先生はそのなかで善後策として国旗国歌の法定化をば覚悟したが、これこそ東大の加藤陽子先生が専門の近代史講義で明らかにしたやうに、戦前の歴史がさうした理性的な協調路線の選択が実は悲劇にまっしぐらの原因であつたわけで、戦前派の野中先生だからこそ、それを解つてゐるべきだつたはず。
幸福の科学大川隆法先生の香港での新書発表会。あれつて巡錫だつたとは!その機会を逸したか。