富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2009-02-02

二月二日(月)晴。今日のFT紙はまさにGrandpa Wen祭り。一面トップで“Wen looks at fresh stimulus”と祭上げ5頁目一面割き“A mandarin's mandarin”と持ち上げる政治的言説と修辞。ロラン=バルトやフーコーが聞けばいつたい何と述べたかしら。「我らが」温家寶首相曰く“I want to makes it very clear that maintaining the stability of renminbi at a balanced and reasonable level is not only in the interests of China but also the interests of the world”と。まさか先進国が中国にご利益期する時代にならうとは。そして中国の自信。だが中国では春節後に働き先に戻れぬ労工の数二千万人と発表。深刻な不況や英国での温家寶首相への抗議者による靴投げも報道するだけ中国もマシか。それにしても温家寶の周恩来以来か、の世界に安心感与へるあの大人ぶり。確かに“A mandarin's mandarin”だが「日本になぜあんな指導者が現れるのか」と嘆くは易し。内田樹先生的には寧ろ「さういつた指導者に期待を委ねなくても良い政治的社会環境を選ばなかつたのが日本人の選択」で「さういつた指導者を必要としなくてもどうにか間に合ふ社会であることは寧ろ幸せと考へるべきだらう」となるのかしら。
▼今日の朝日新聞苅部直氏による西部遇氏インタビュー読む。
経済学の抽象化された論理が現実政策を支援することの危険性。
人間が効用、不効用で効用を選ぶといふ近代経済学の人間観はばかげてゐます。
マルクスの労働は人間を疎外するといふ論に対して)人間は生きてゐるかぎり疎外される。
市場では、商品を売る側と買ふ側も、将来について一定の見通しが必要になる。
市場をシジョウと読んだときから、すでに経済学はゆがみ始めてゐる。
価格に人間の関係性が表れる。市場とは元来、さういふもの。
といつた示唆は興味深いもの。これについて偶然、TBSラジオの「アクセス」で今夜隔週で出演の田中康夫氏のコメントをPodcastで聞く。田中康夫ちやんはこの西部&苅部対談を取り上げ、康夫氏は西部氏が自分と(主張は)同じくハイエク自由主義が間違つてゐたのではなくて……と西部氏がハイエクを語つたことを取り上げ、そこから西部氏も自分(康夫氏)も
ハイエク自由主義が間違つてゐたのではなくて、ミルトン=フリードマンの暴走する弱肉強食の新自由主義が間違つてゐたのであつて、ハイエクが述べてゐたことは寧ろ……
と語り、思ひつきりのフリードマン悪者論。田中秀臣氏の指摘を思ひ出す。内藤克人、宇沢弘文といつた経済学者がフリードマンをきちんと理解せず、ただ誤解と印象でネガティブに取り上げてゐることを指摘する秀臣氏。康夫氏のこれもフリードマンを語るのではなく他を語る際に悪しき例としてのみフリードマンを用ゐる。なぜフリードマンは死後もこんなに悪者扱ひされるのか。私のやうな無学でもフリードマンの経済学が単なる「暴走する弱肉強食」とは思へず。フリードマンを所謂、新自由主義と括することすら疑問。実は康夫氏の言及に反して西部氏はインタビューで一言もフリードマンには言及してをらず(笑)。確かに苅部氏が対談のあとのコメントで、
(西部氏が)市場原理主義の経済学の総帥、ミルトン・フリードマンの教科書を、かつて訳されたお一人であればこそ、経済学の論理の暴走に対する批判は、一段と真剣である。
と述べてゐる。が、これはフリードマン市場原理主義=暴走する新自由主義とは全く言つてをらず、寧ろフリードマンの本来は効用ある市場原理主義があり西部氏がその理解者であるからこそ、市場原理主義の狂ひに対する批判が真剣、と述べてゐるもの。西部氏もインタビュー最後でバブルでの日本的経営賛美、バブル崩壊でのグローバリゼーション礼賛に続く今度の危機での「市場原理主義批判の大合唱」に「落ち着きがない」と疑問呈される。ハイエクについて「ハイエクの「根本思想は」認める」とした西部氏は(これだけでも康夫氏の主張とは多少ニュアンスが異なるが)けしてフリードマン市場原理主義を否定もしてはおるまい。

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