富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-04-25

四月廿五日(金)雨。朝日新聞に『マカオぴあ』なる「ぴあ」の出したマカオ観光のmook本がついて届けられた。創刊号の由。アタシの世代だとmook本と聞くと、どうもすぐゾッキ本彷彿するが、「刻々と変化するマカオ」の最新情報満載といふがカジノ産業と世界遺産だけでは発行が隔月でも新ネタ乏しからう。だが500円と価格表示こそあるが一見さん相手の観光ガイド雑誌と思へばマカオ観光局とのタイアップで採算は十分。それにしても、わたせせいぞうの描くオシャレなタイパのカジノホテル界隈が実際にはいかに殺伐としたものか、香港からタイパ行きのフェリーが「コタイ・ジェットはブルーの船体が印象的な、新しくてラグジュアリーな高速船。船内は落ち着いた、ラグジュアリーな空間となっており、船内で優雅な時間を過ごすことができる」なんて紹介も現実にフェリーなど田舎観光客と博徒の喧騒で「なにがラグジュアリーか」と嗤ふばかり。マカオと言へば国家主席胡錦涛君の勅命にてマカオの賭場開設制限。着工中、批准済み以外これ以上認めず。中国の田舎漢らの賭事狂ひ、どこまでが個人の遊び金か怪しい人民資産ドブに捨てるが如き態、需要上回るカジノ建設ラッシュ沈静化……等々、理由も様々あれ共産党主導の国家で賭場は原理的にいけません。晩に銅鑼湾の某「京川滬」食肆にて宴会あり末席を汚す。京川滬つてのは美味くないものの代名詞のはずが物凄い店の盛況で香港人にとつて京川滬=ファミレスなのだ、と思ふ。
加藤周一氏が「随筆」について(朝日新聞)。日本の随筆は枕草子徒然草のやうな「日本文芸の伝統において」「全巻を通じての概念の建築的構築を欠く」「各章各節の間にほとんど関係がない」もの。周一さんが随筆の定義として挙げるものは
・随筆は原則として現実の出来事を扱ふ。出来事とそれに対する作家の反応。
・定義が可能なのは、表現の形式及び内容の特徴を組み合はせた場合である。
・「随筆」とは日本国で発達した文学的表現形式の一つ。(なぜ「日本」でなく「日本国」としたのか周一さんに尋ねたいが)
・現実の環境に関心を集中し、空想の世界に遊ばない(一種のレアリスム)。
・表現は概念的建築の全体ではなく、細部に向かふ(茶室の美学)。
・随筆の全体を貫くものが全くないわけではない。それは作者であり、文体にまであらはれる彼または彼女の個性。
等々。なるほど、と思はされるが大いに疑問なのは
昔は日本の伝統的造形美術において非構造的空間は最大の弱点だと考えていた。文章においてさえ随筆における強烈な説得力の欠如は、その限界だと感じていた。
といふ言ひ分。この言ひ分は「だが違ふ」といふ方に論は進むのだが、この言ひ分の「考へてゐた」「感じてゐた」のは誰のことか。一般論としてなのか周一さん自身なのか。かういつた「日本は非構造的、非論理的」といつた概念こそ(本多勝一の「日本語は論理的ぢやない、といつた誤謬」といふ指摘の通り)身贔屓な勝手な「日本は特異」観念の温床ぢやないかしら。いづれにせよ周一さんは、さういつた「この国の言語表現の自由も、ついに、過去をふり返るのが勇気の問題になるところまできたのか、と思う」として良書に挙げるのが、なだいなだ著『ふり返る勇気』。これは是非読んでみたい。
国立民族学博物館館長の佐々木高明・元館長のチベット問題に関する「問われる「先進国の品格」」(朝日新聞・私の視点)が秀逸。佐々木さんは一般的に近代国家なるものが18世紀以降に西欧で「一国・一民族・一言語」を標榜して建設されたもの、として、それが政治権力を握つた主要民族が他の民族を抑圧し、優等と劣等に民族を差別するものとなつた。20世紀になり「知のあり方」が変はり観察者と観察される側の立場の見直しなどが行はれたことは民俗学文化人類学では周知の事実。さういつた視点から佐々木さんはチベット問題について、昨年9月に国連の「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択した日本がは、この夏には北海道洞爺湖サミットチベットなど民族問題に話題が及んだ時、サミット議長国としてどう対応するのか、と。これに対応できてこそ「先進国の品格」ぢやないか、と言ふ。まさに御意。「品格」といふ言葉を使つたのが実にスマート。何だか国家の品格だか女性の品格と最近「嫌な使ひ方」ばかりされ変な本がベストセラーになつてゐるが、「国家の品格」なんて感覚じたいがいかに馬鹿げたことか、と思はされる。

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