富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-12-20

十二月二十日(木)母たちがホテル近くのオリヴァースサンドヰツチ店にて朝食。母と朝九時の予約で湾仔のImmigration Deptへ出向き母の香港身分証作成。朝九時が予約の先頭のはずなのに、すでに整理番号は100番。75分で終了。母とご一緒に来港のTさん、Sさんのお二人はZ嬢が中環の街市界隈にご案内。中環のMark & Spencer商店で落ち合ふ。ご婦人方の買物のあひだ雑用済ませ、所用ありのZ嬢と別れ母たちを連れ6番バスでリパルスベイ。The Verandaにて昼食。朝からの強い風で一昨日からの靄がかつた曇天が一気に晴れる。レストランは窓を開け放ち涼風が吹き抜け極めて心地よい、がBGMがフュージョン音楽なのがアタシには理解不可能。咖喱味のポタージュと海鮮のパスタ。Coteau du Tricastin “La Ciboise” Chapoutier 05年をグラスに一杯。Sさんが鴨料理を少し分けてくれたのでVilla ChioprisのCav Sau DOC 05年もグラスに一杯。デザートまでかなり満喫。延々フュージョン聴かされたのが玉に瑕だが。バスでスタンレー。香港観光の「基本のき」のやうな定番コースなのはTさん、Sさんとも香港初めて、が為。ぶらぶらと土産物屋冷やかし午後遅くのバスで湾仔。ホテルに戻らずフェリーで尖沙咀。ペニンスラホテルの商店街でご婦人方はお買ひ物。アタシは小一時間雑用済ませ早晩に地下鉄で坑口。ミニバスで西貢。海傍街の奥まつた鄙びた海鮮料理屋に行くつもりが海傍街の入り口の生け簀のところに仁王立ちした、西貢の海鮮料理屋の「勝ち組の代表格」通記の生け簀担当のオバチャンに拿捕され蝦蛄だの蝦だの魚介選んだ揚げ句、海鮮街入り口の通記まで連れ戻される。Z嬢も遅れて西貢へ。やつぱりあたしは奥まつた鄙びた店が好き。ミニバスで坑口経由で母らホテルに送る。
▼昨日の昼餉の最中、昔は年末がいかに慌ただしくも楽しい日だつたか、といふ話になる。地元の銀行に勤めたT女史曰く、大晦日は今は休みの銀行も当時は仕事納めなどといふと聞こえがいいが、商家は年末の売上げを正月三が日に置いておきたくもないから年末の夜の七時、八時、下手すると紅白の始まつたあとにも現金が持ち込まれ、それを勘定してゐると除夜の鐘。正月は二日からの営業で元旦は支店長宅だ、部長の家だ、と年始参りもあれば大晦日は順番に「ほら、某さん美容室に先に行つておいで」「着付けの準備は大丈夫?」と窓口業務の間に、さういつた準備もあり、そりや慌ただしかつたのなんの、と。でも、それも今にして聞けば、ほんたうに活気よき時代の話。母がなぜウチが商売を止めるに到つたか、の話。祖父はじつは父母が商売を継ぐ時にも「店を継ぐのか」と心配。といふのは「かならず自分たちが働かないといけない時代が来るのだから」と。この感覚、「えつ、何よ、それ」だが、祖父の時代は商売屋の旦那といふのは番頭、職人など雇ひ、自分は俳諧に絵画、芝居と道楽を愉しむ酔狂者で良かつた時代。もう、それが戦後の高度経済成長からは、時代が変はるとそんなこともしておれない、と。この、当時のその「いい加減さ」が地方の商売などダメにしたのかも知れぬが、今のシャッターの閉まつた、空家や駐車場ばかりの商店街を眺めると、祖父の予言も正しかつたのか、と納得するところもあり。
▼数日前の新聞弔報で亜細亜大の学長であらした衛藤瀋吉氏の逝去知る。衛藤先生が亜大学長当時、中文大学に参られ、そこで一度お会ひしたことあり。当時、70歳非常に気さくな方で末席の学生にまで気軽に声をかけ談笑される。名前の「瀋」の字も旧満州生まれゆゑ、か(満鉄奉天図書館長であつた衛藤利夫が父)。奉天中学から旧制一高経て戦後すぐに東大法学部政治学科卒、で専門は中国中心とした東アジア国際関係(アタシにはこのテの、失礼だが大風呂敷な「学問」がよく理解できず……橘樸(たちばらしらき)のやうな中国研究、評論としては理解できるのだが)で亜大の学長、とまるで「絵に書いたやうな」大陸づくし哉。

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