十月廿二日(月)ブログ・世に倦む日日は“Stop The Koizumi”で小泉三世の御世はしばしば読んでいたが最近ご無沙汰。このサイトで仙台にあった八重洲書房についての言及あり、と築地のH君により知らされる。
仙台には有名な初売りがある。八重洲書房の初売り風景は壮観だった。初売りでは商品の値引きがある。仙台中の知識人が集まってきて、目当ての本を大量に買い込み、両手に抱えて列を作っていた。賑わいのある美しい風景だった。客たちは皆いい顔をしていて、知識人の祝祭広場を感じながら時を過ごすのが楽しかった。
しかもブログ氏は「仕事で仙台を訪れた際は必ず立ち寄って」と書いているのだから、仙台在住以外の人からも八重洲書房には思い入れが、と。もう八重洲書房がなくなって何年かしら。実はH君と初めて会ったのも二十数年前にこの八重洲書房の隣の(というか店の中から入れた)確かGoodmanという名の喫茶店。H君の隣には現君がいた。東宝系のロードショー館での夜勤と館内清掃のアルバイトのバイト代の全てが八重洲書房での書籍購入に消えていたあの当時のアタシ。思想的には八重洲書房、ちょっと悪所的に仙台書房。そしてその間の横丁には焼き鳥や中華料理など美味くて安い店多く、この一角だけでまったりとした生活が出来た時代。今の仙台には紀伊国屋、ジュンク堂、丸善……と大型書店の進出で床面積的には書店は減っていないようだが高山書店、アイエ書店など所謂「地方の老舗書店」は殆ど(金港堂本店くらいを除き)すでに廃業の由。アタシの郷里でも川又書店という、小学生の頃に「ツケで本がいくらでも買えた」(……って商店街の週間で月末にまとめて請求があり親が払ってくれていたのだが)旧本店は今はもうない。当時の「書籍だけはいくら買っても叱られない」というが災い、書籍購入すれば自分で払わなければならぬ今となっても「つい、書籍を買ってしまう」習慣がamazon.comや紀伊国屋での散財に繋がったか。いずれにせよ本が山のように積んであるから、読む。帰宅してドライマティーニ二杯。ジンはゴードン、タンカレーとボンベイサファイアの三本は常時、一本空いた時のために買い置きまでして、ある。本来はここにPlymouthがあれば完ぺきなのだが香港で最近アタシのお目にはかからない。一本のジンが飲み終わると次のボトルをとり出し、そのまま置くならまだしも次の時の一杯のために栓を開けてしまう、それが「飲み屋じゃないんだから」と自嘲。ジムに寄って帰ろうか、と思うのだが、つい二杯のジントニックと何か読みたい本にばかりそそられて。秋はとくにこの涼しさと「夜なが」は読書に限る。秋めいた豚汁や茸の炒め物など食す。久々に夕飯で米を炊き納豆と明太子。田原牧『ほっとけよ』(ユビキタスタジオ、2006年)読む。著者は東京新聞記者で同志社大学一神教学際研究センターの客員研究員で日本アラブ協会の季刊『アラブ』編集委員。まえがきのような01章で著者はさらり、と自らが所謂「性別」を越境していること、それが「性同一性障害」という病名をつけられてしまうこと。だが著者は「いわゆる女性」として、いる。アタシは個人的に関心があるのは著者が「性同一性障害」といったことより寧ろ、その人がアラブ、イスラームという私たちのイメージだと「いかにも男社会」(注)、それのエキスパートであること。イスラーム研究では東京外大の酒井啓子教授もそうだが女性の研究者が面白い。
(注)例えば本多勝一が『アラビア遊牧民』の取材にあたり「イスラームの男」になりきる前提であったことなど。
▼蘇州のI君から、桂花とGrace Vineyardの香りが重なる愉しさからか、ほろ酔いで、とメールあり。アタシが昨日、スポーツなどに言及したものだから「スポーツとは本能の最たるもの、故に、理路整然と語りたがるもの多し」と。でも厳密に言うと「身体が動く」ことと近代の「スポーツ」は違うよ、などと微酔い加減でメールし返すのがまた楽し。本能的に身体が動いていたらルールなんて成立しないんだからゲームにならない、と。……そういう意味では長嶋茂雄とか具志堅とか、ギリギリの際にいて興味深い、などと考えていると「考えて、と、体が一緒に動くレベルになって初めてスポーツになる」といった言葉が鉄之佑先生にある、と言われてもこれが早稲田のラグビーの大西鉄之佑のことだとわからず、観衆が“Take me out for the ball game”をなぜ歌うのか、と言われても大リーグでそういう歌があることすらアタシは知らず。……やっぱりスポーツのことなど語ってはいけないね、と思いつつ、自分が山を強行に歩いたりマラソンまでしているのだから、と自嘲。マラソンといえば村上春樹先生の新刊『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)って何よ、あれ。あの勇気、往年の沢田研二の如し(だがジュリーは歌い手であり村上春樹は作家だ)。あれだけマスコミに登場するのを嫌う人が、しかもシャツも着ずに走っている姿の露出。アタシは『海辺のカフカ』で15歳だかの主人公の少年がジムで!鍛練後の裸姿を鏡に映して筋肉のつき方を確かめ!、しかもご丁寧にシャワーで恥垢の気になる鬼頭を丹念に洗う!、といった!印三連発な描写を読みナルシストな主人公に「鬼頭の恥垢を丹念に洗う」著者自身の姿を想像してしまい眩暈がしたが、走って丹精な身体を披露する村上春樹の姿はどこか三島由紀夫みたい。三島の場合「無理して」の姿勢が露骨に見えたのに「さりげなく」にしてしまえるところが昭和戦後の近代の作家との40年のPR力の差なのかしら。……アタクシも一応、マラソンランナーの端くれだから何でも言ってしまおう。
▼蘋果日報に「達?:我是中國人」という記事あり。ダライ=ラマがいくら北京中央との協調路線図ろうとも、まさか「自分は中国人」とまでは言わぬのでは?と思ったら案の定、米国華盛頓での記者会見で「あなたは中国人か?」と記者に尋ねられ「当然是中国公民」と回答。 なるほど、これなら納得。「私は中国人」と答えるのと「もちろん中国の公民ですよ」と答えるのは全く意味が違うのだが……記事もずいぶんといい加減。ダライ=ラマは「全世界が知っての通り、私は求めているのはチベットの独立ではない」としてチベットが中国に属することで更に反映があり強大になるのであり、チベットの外交と国防は中国の中央政府が掌管するが、教育・文化・宗教・経済・環境といった行政はチベット人による自治とすべきこと、またその範囲はチベット自治区だけでなく雲南省、四川省、甘粛省、青海省などのチベット人居住区にも及ぶこと、を主張。
富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/
富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/