十月廿一日(日)毎週末のMacLehoseのトレイル、で朝八時半にMTR?湾站に集合。七名。先週の続きだと大帽山だが此処は十一月にTrailwalker2008の挙行に合わせボランティア清掃予定のため端折り、MTR?湾站よりタクシーで?錦峠、MacLehose TrailのSction-9、6.3km歩き吉慶橋。青いランタナの花満開で蜜吸う蝶々多し。Section-10(15.6km)は大欖ダムに沿いだらだらと歩くコース、で終点で喰うに値するものなく、いつものことで吉慶橋より圓?郊遊徑(Yuen Tun Country Trail)を抜けて深井へ。昼過ぎに深井に到着。裕記大飯店。名物の焼鵝を丸々一羽、それに野菜だの揚げ魚など頬張り、さら二焼鵝を瀬粉(ライフォン、米の澱粉の麺)で食そうと更に半羽追加し平らげる。麦酒も浴びるように飲む。地下鉄に揺られるまま眠りに落ちジムに一浴し帰宅。さらに夕方、転た寝。晩に中環。日本料理・なお膳にZ嬢と。五年前から「一度ご一緒に食事」と話していたS夫妻より招酒の約あり、旧知のT氏もS夫妻と懇意で御一緒に。懐石いただく。酒は浦霞の純米酒。なお膳、店の造りは実に落ち着いているが、それに比べ街頭の看板だけが陳腐。アタシはずっとそう思っていたが今晩、店を出て皆さん同感。帰宅して読書。帰宅して、昨晩からの吉田純子『少年たちのアメリカ 思春期文学の帝国と<男>』(阿吽社・2004年)読了。著者はフェミニズム、ジェンダー研究から、女性が自分たちの「声」を高らかに発しなければならなかったのは「アメリカの男たちがそれほど頑強に、男社会の規範を維持・継承してきた」からと見て「男らしさ」「男性性」を米文学から考えるようになる。とくに子どもから大人になる思春期の文学作品への着目が面白い。序章(境界線上の少年たち)で著者は「純粋無垢な子どもが悪徳や矛盾にみちた「大きな世界」に直面し、苦悩の試行錯誤のすえ、ついには自らの汚れなき魂を賭けて「世界」と渡りあい、折りあい、「成長」をとげる」というのが「成長とひきかえに無垢を喪失し、子ども時代の終焉をむかえる」基本プロットだとしても、
アメリカは、旧世界の悪徳と決別して自らを「汚れなき国家」と規定したはずなのに、「成長」するためにどうして徽章である「無垢」を失わねばならないのだろうか。
と疑問を呈す。『オズの魔法使い』も我々はドロシーという少女を中心に考えがちだが実はあの物語は不能な男たち(案山子、ライオン、ブリキ男)が男らしさを再生する物語であり、ターザンも進化論の影響で「男の<動物的本能>が肯定的にとらえられ、男は進んで自分たちを<原始人>にたとえた」と見るから面白い。結局、廿世紀の急激な社会変化に対応しきれない男達の不安がある。米国は(厳密に言えば「男にとっての」米国は)無垢では生きていけない時代に米国のとるべき方向としてルーズベルト的な「無垢なリベラリズム」から「内なる敵の存在」というマッカーシズムを経て「責任あるリベラリズム」の時代となり、そして更にベトナム戦争から冷戦、テロの脅威の今日まで「見えない敵」を見い出し!(なんて矛盾……)息絶え絶えであった米国の神話は復活を遂げる。……と戦後の米国の若者文学を通して著者の分析してみせた米国の男性<性>は興味深い。ただ欲を言えば(著者がとても上品なのかしら)、マッカーシズム取り上げる時に「性の逸脱者も摘発・断罪されたのである」とまで触れておきながら米国の男性におけるホモフォビアについて突っ込んでおらぬし、ソ連やテロリストといった仮想敵との戦いが実に自慰的であることにもっと言及も欲しかったところ。フーコーの『監獄の誕生』からの「権力による個人の「順応する身体」の構築」に言及しつつ、進学予備校(や寄宿制学校)が「白人中流階級の少年たちを体制的に順応させるのに、誂えむきの施設だったに違いない」とするが、それが更に「性の逸脱者を生む装置」である本質こそ重要じゃなかしら。いずれにせよ知的興味たっぷりな著作であること。ところで先日、内田樹先生がサッカー球技を文化人類学的な「無価値なものの交換」と分析していたのも面白かったが、この吉田純子教授は野球競技を
プレイヤーが安全なホーム(家庭)からフィールド(戦場)に出撃し、敵の攻撃をきりぬけて安全なホームに帰還するというゲーム
と、なぜ男性が野球に熱中するのか、分析していたのが興味深い。ただ厳密には(ってアタシは野球「も」ほとんどやったことがないが)野球は「敵の攻撃」ではなく、
相手のキャッチボールを勝手に「打ち返し」することで出撃し敵を撹乱し混乱の中で敵の防御を切り抜けホームに帰還する
という、さらに野蛮な(無邪気な、実に米国的な)スポーツなのぢゃないかしら、と思った。朝鮮戦争もベトナム戦争も今日のテロとの戦いも、すべて、これ。
▼SCMP紙(日曜版)一面に“Myanmar's monks had US training”という記事あり。ビルマでの仏教僧による軍政抗議活動で、中心となった僧は米国系財団 The National Endowment for Democracy(NED、国民民主主義基金)のタイにあるキャンプで「非暴力的抗議活動」につきトレーニングを受けていた、と。この財団、1983年に米国国務省の肝煎りで設立され政府予算からも財政的支援あり。具体的な活動内容については言わずとも明白。調べてみると、やはり、このNEDに抗議する形でThe International Endowment for Democracy(IED、国際民主主義基金)あり(日本語でのアッピールはこちら)。
▼朝日新聞国際面にも記事(鈴木暁彦記者)あったが広東省仏山近郊の村(仙塘村)で村の幹部が公共地の使用権不正売却で利益独占、その額、実に15億円!、抗議の村民が村役場占領し100余日。村民ら数十人が交代で煮炊きをして籠城。証拠となる書類など差し押さえ。見事。これぞ民主主義か。だが香港の行政長官 Sir Donald的には住民の暴挙かもしれぬ。