六月廿一日(木)朝は五時すぎには空も明るければ目も覚め夕は晩七時半もまだ明るい。夏至近し。日本なら南の太陽が真上にいよいよ近くなるこの季節、香港は北回帰線より以南ゆゑ太陽はむしろ北へ傾く。夏のこの季節、快晴の空にただ「暑い、暑い」とうな垂れていたらそれまでだが、夏至の頃の香港は太陽が北側からさすことで普段見慣れた光景も見慣れぬ面白い陰影があちこちに映し出される。とくに昼過ぎから夕方にかけては、冬とはまた異なる、不思議な光の世界。ふと立ち止まる。諸事忙殺され遅晩に至る。タクシーが時速110キロで高速道路を前方の車両と車間距離3mで走る。この運転手と心中か、明日の蘋果日報には血だらけのあたしの写真が大写しか、といつも覚悟。幸い無事、自宅に着く。ああ、今日も生き延びた、と思う。パイプ煙草燻らしドライシェリーを一口。朝日新聞に吉田秀和先生が音楽展望で語る。
新聞を読むのが、だんだん億劫になってきた。目が悪くなったせいではない。中身のことである。
と語り始める。御意。だが「全く読まないところまでは来ていない」として、なぜ読むか、に挙げたのが加藤周一氏のコラム(夕陽妄語)。徹底的に理を語る加藤周一の姿勢に吉田秀和は感動する。そして「壮大な戦の渦中にある」大江健三郎。で話は音楽のことになって挙げたのはブレンデルであった。然り。ブレンデルの演奏には「それ以前の何世代にも及ぶピアニストたちが開拓し、積み上げてきた演奏史のの跡が反映し」「すごい重荷を背負って」演奏する、と言う。ピアノの話は郎朗(ラン=ラン)へと進み、彼のベートーヴェンの協奏曲4番を取り上げ、その「普通なら堂々たる威容を見せる」この曲の第1楽章と第3楽章の第2主題の「実にきれいな、そして表情的なピアニッシモ」で、この曲が「彼の敏感でよく走る指の下では、軽くたおやかなに流れゆく春の風みたいな優美な音楽と化してしまう」と述べ、このような弾き方に接するんはギーゼキング以来と絶讃。若い音楽家の中にこうした喜びを感じられることを吉田秀和は我が事として喜んでいる。幸せだなぁ、と感じてあたしはポートワインを少し飲む。
▼郎朗のピアノについて。演奏活動が多すぎはせぬか。役者は舞台をこなすことで育つ、といえばそれまでだが、あまりのスケジュールにどんな才能も分解してしまいそう。アイドル的ピアニストとしての「芸能活動」から一線を画したことでKrystian Zimermanが今日あるように、郎朗はこのままでは不安も。ただし本人はむしろプロデューサー的な、中国のピアノ界でのゴッドファーザー的な存在となるべく、ならこれでいいのだろうが。
▼ピアノといえばアシュケナージが来年開催の香港国際ピアノコンクールの前宣伝で来港。信報には一頁大の特集記事。記者曰くアシュケナージ先生の取材で話題がグレン=グールドに及ぶと「昔、一緒に飯を食ったことがある」とアシュケナージ先生は逸話語り始め余興に、とペニンスラホテルの先生の部屋でピアノの前に坐ると、さっと「グールドの弾くバッハのプレリュード」を余興で奏でてみせたそうな。好きだね、こういうノリ。聴いてみたい。中村歌江の真似する六世歌右衛門であるとか、市村萬次郎の真似する舞台稽古での玉三郎のダメ出しとか、ブラック師匠の演じる「弟子のブラックに小言の談志」とか、あたしはそういうのが好み。
▼香港返還十周年で中英交渉からの担当者が何かと「これまで内緒の話」を語るのが面白い。すでに流布されていた話の「裏がとれた」といった話多し。当時の新華社香港分社社長の周南は?小平が香港返還について「鍵となる時に鍵となる問題で鍵となる指示を出した」ことをあらためて評価し、中英交渉の逸話として、82年9月にサッチャー首相が北京訪れ?小平と会見。会見後に人民大会堂の正面会談でサッチャーが足を踏み外しコケた。あれは英国側としては主権は中国に戻すが統治権は英国に残すとして、これまで通りの香港の維持を提案したところ、?小平が交渉の期限は最高二年、二年で決着つかぬ場合は中国が独自に香港返還を決定し公布する、と断言。これにサッチャー首相の狼狽があの転倒になった由。中英合意の草案で最終的には「香港は高度の自治権を有し中国中央人民政府直轄とする」と落ち着いた件も英国側は「香港は高度の自治権を有する」に留めた提案をしており、英国は香港返還後に香港に総領事館を置くことに難色示し高級専員公署(コミッショナー)の設置に拘ったという。
▼同じく最近は舌に衣着せぬ「香港の良心?」の陳方安生は今回の教育統籌局の舌禍事件でも明らかなように香港政府の問責制(http://ja.wikipedia.org/wiki/高官問責制)には根本的な構造上の問題があり「董建華は政治的野心や私心はないが家族ビジネス出身で政府によるガバナンスや行政手腕には経験不足で、自分の考えに固執するので、かなりの時間について自分(陳方安生)が董建華に説いたが理解得られず自分は辞任に至った」と言いたい放題。自称政治家Sir Donaldについては公務員出身で政治的責任のある問責制と公務員体系の区別の認識あり、と評価。ちなみに、この問責制については信報も社説で政府高官のうち問責制で政治的責任を有する高官と公務員高官との区別を明確にすべき、と指摘。厳密には、教育統籌局の常任秘書長であった羅范椒芬は教育学院問題での独立調査委員会の調査の対象になるのかどうか、と指摘。問責制の対象となる高官の枠が広がり過ぎてはおらぬか、と。
▼教育統籌局に関する「舌禍」について。ふだんは風聞は避ける信報ですら教育統籌局長のアーサー王・李國章が今回「お咎めなし」はアーサー王の実兄・李國寶が行政長官Sir Donaldの再任御用選挙での選挙対策の責任者であったように関係が密接であること疑う。SCMP紙も羅范椒芬は兄で行政会議メンバーである范鴻齡が妹に対して今回の調査結果発表になる前に辞任してはどうかと持ちかけたが羅范椒芬はこれに応じず、また政府でも羅范椒芬が廉署公署のトップ務めることに不信感高まることを恐れ(ってなぜこの異動を決定したか、が不思議だが)香港政府の海外事務所など「当たり障りのない部署」への異動(実質的左遷)を検討していた由。だが羅范椒芬本人は屈辱的であっても今回の答申を受けたところで「香港政治の奇形ぶり」とまで不満顕わにしての辞任を敢えて選んだ、と。まことに政治強人。昨日の蘋果日報の一面トップの写真を見ても、マスコミにあれだけ叩かれても辞職表明し自動車に乗り込んだ時のあの嬉しそうな表情は、この人は罵声だろうが賞讃だろうが渦中にあらば快感か。これから葉劉淑儀のように政治家狙いか。魑魅魍魎少なからず。
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